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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 韓のくに紀行~春 Ⅲ


東大邱バスターミナル


今日は南東方面に向かうので、昨日とは違う東大邱のバスターミナルへ。規模が小さくて、いかにも地方都市のバスターミナルって感じですが、迷子にならないシンプルさがあります。

晋州(チンジュ)へ行ってから泗川(サチョン)へ行こうと考えていましたが、ふと、より遠い泗川から行くこともできるなと思い窓口で聞くと、泗川行きが10分後に出発だとか。

晋州だとバスが行ったばかりで1時間近く待たないといけないので、それならと泗川行きを買いました。この選択が一日の幸運の土台になったので、一瞬の霊感も逃しちゃいかんなと。



バスターミナル

バス乗り場

チケット

泗川行きバス


泗川行きバスは2時間に一本ほど。泗川は海に面した人口約11万の港湾都市で、大邱からだと1時間半ほどで着きます。

文禄・慶長の役のとき日本vs朝鮮・明軍が戦って、その戦いを「泗川(しせん)の戦い」と呼んだりしますね。戦国時代や朝鮮出兵を調べる人にはお馴染みの名前かもしれません。

でも行く人は少ないみたいですね。韓国人でも、観光地でない泗川まで行く人は少ないようで、乗客は私を含めて3人。途中で1人下りて、こんなんで経営が成り立つのかと思いました。だけど田舎道を行く道中は快適。気分も上がります♪



時刻表

車内

泗川城


泗川のバスターミナルからは、路線バスなど公共交通機関が通っていないためタクシーで。思ったより遠くて、時間は25分ほど、タクシー代は3000円くらいかかってしまいました(やむなし)。

着いてみたものの、どこ?って感じ。事務所のような所を覗いてみましたが、誰もおらず。でも事務所の横に石碑と解説板がありました。

石碑に「船津里城」と書かれています。日本語もある解説板には「泗川 船津里城」と。日本語もあるのは有り難いですが、それくらい「日本人も知れ」という圧が感じられて微妙ではあります。日本軍はここに城を築いて拠点としていたんですよね。もちろん人を、大勢殺して。


壬辰倭乱とは?


では改めて、壬辰倭乱(イムジンウェラン)とは何でしょうか。日本が朝鮮に対して起こした侵略戦争ですが、この戦いを日本では文禄・慶長の役(朝鮮出兵、朝鮮役)と呼び、韓国では壬辰倭乱、北朝鮮では壬辰祖国戦争、中国では万暦朝鮮役と呼んでいて、このように呼称が様々であるのは、各国の歴史認識の違いを象徴しているようで、知れば知るほど複雑な気持ちになる戦争です。

この戦争によって、領土的な変化は一切起こらず、ちゃんとした講和さえ結ばれなかったのですが、この戦争に参加した日明朝三国には大きな情勢変化がもたらされました。なので呼称を統一する必要はないとしても、どのような戦争だったのかの検証は進めていかなければならないものと考えています。

のべ30万人を上回る兵士を送り込んだ日本は、そのうちの10万人を失い、首都を始め全国が焦土となった朝鮮は荒廃し、のべ20万もの兵と物資を投入した明も国力を著しく消耗しました。そのため明は、勃興しつつあった満州族の圧力を退けられなくなり、ついには清へと取って代わってしまうのです。

今日は壬辰倭乱の激戦地晋州にもこの後行くし、この戦争の意味をじっくり考えながらめぐりたいと思います。



石碑

解説板

日本語解説板

石垣登場


泗川(サチョン)城跡は、泗川湾に面した比高20メートルの丘陵先端部にあり、城郭の規模は東西約500メートル、南北約500メートル。

入口から少し登ると平地が開け、石垣が現れます。明らかに朝鮮式城郭の城壁とは違う日本式の石垣ですね。

しかよく見ると、あまり日本の石垣に詳しくない人によって「修復」されたのか、上部に積まれている石が、整形されている上に漫然と積まれていて、残念極まりない感じ。

度々歴史問題が浮上して悪化することのある日韓関係を思えば、日本式城郭や城壁を当時そのままに復元するのは、様々な面で難しい案件なのだろうと思われるので、これくらい「修復」されていることを有り難く思うべきでしょうね。緑陰に佇む石垣の美しいこと。

基本は野面積みでしょうか。一部打ち込み接ぎ(「打込ハギ」とも。自然石や粗割石を積み上げ、その隙間に間詰め石を詰める工法)の布積みを志向した様子がうかがえます。隅角部は算木積みしたかったんだろうけど、長辺を持つ石が思うように調達できなかったようで、交互に長辺を振り分けられていません。

積んだのが当時の日本人(徴用した朝鮮人を含む)か現代の韓国人か分からず、「修復」時にどの程度の考証をしたのか不明ですが、だけどここまで来て、日本を感じるものに出合えるなんて、それだけでも喜びが沸々とわいてきます。「喜び」なんて言うと、「侵略行為への反省が足りないバカ」とディスられるんですが、歴史的なワクワクは感じていいんじゃないかと。


泗川城の築城


さて泗川城は、いつ誰によって築かれ、どんな役割を果たしたのかというと、まず、文禄・慶長の役の、慶長の役(けいちょうのえき。韓国では「丁酉再乱」チョンユチェラン)の方で新たに築かれた城だったことを押さえておきましょう。

1597(慶長2)年から始まった慶長の役は、秀吉が講和条件として求めていた朝鮮南部四道の割譲を目的とするものでした。なので慶長の役で日本軍が新たに築いた城は「仕置きの城」、つまり占領統治の拠点であったと考えられています。

泗川城も含め、海岸部に築かれた倭城は総構えを設けて港を城内に包摂し、港と主郭部の間に大きな空間を有する構造になっています。それは大兵力と物資を迅速に陸揚げし、内陸侵攻の補給拠点とするためだったと推測されます。



石垣

石垣

石垣

城内へ

大手口


見えてきた大手口。城門が復元されていますね。

このアングルから見ると、まるで兵庫県か畿内のどこかにいるかのよう。

いや、だけど、ここは韓国の南沿岸部。ここからは見えないけど、西側の崖を下った所には今も港があるはずなんですよね。ああ、不思議。時空を超えてここにいることがあまりにも・・・。

うぬ、これ虎口ですよね? 私がこの通路をまっすぐ進んで城門に至ろうとすると、左右から射かけられて死ぬんだろうな。日本国内の城郭にいるみたいな既視感すごいです。日本の時代劇で使えそうなくらい(こういうこと言ってるから「不謹慎だ」と叱られるんですね、ハイ;;)。


倭城の虎口


倭城を攻める側の朝鮮・明連合軍は、主に大軍を投入して包囲戦を展開しました。よって対する日本軍にとっては籠城戦となるのですが、日本は文禄・慶長の役の際のすべての籠城戦で勝利しており、基本的に朝・明連合軍は日本軍が本国に撤退するまで城内に侵入できていません。

すなわちこの虎口は、朝・明連合軍の侵入を阻んだ一番の砦だったと考えて良さそうです。ここで命を落とした者も多かっただろうことを思うと、今日のピーカン天気が何とも言えないギャップですけど。



城内

城内のイベント施設

城内の石碑

城内

城門


城門はもちろん復元。解説板には、この城が1592年の壬辰倭乱の時に建設されたと書いてあって、えっと、ブーですね💧

わぁ、姫路城の城門を参考にして建てられたそうです。それで兵庫で見たことあるみたいな感じがしたのか。

天守のことは「天守閣」と呼んじゃってるみたいですね。「閣」は近代になって付け始められたもので、「通天閣」のように高い建物に付けて呼び名とされました。

それで天守にも本来なかった「閣」を付けて呼ぶ習わしが発生したのですが、最近は歴史に詳しい人も増えてきて「天守閣」と言う人はあまり見かけません。古い解説板や石碑などでは「天守閣」と書いてあるのを散見しますが、城マニアや歴史の勉強をしている人でそう呼ぶ人は皆無でしょう。これもいつか書き換えられるのかな。その際には建築年も訂正しないとですね☆


築城そして激戦へ


この城の普請は、1597(慶長2)年10月、長曽我部元親、池田秀雄、中川秀成、毛利吉政らによって開始されました。彼らはその前日に泗川に島津忠恒と共に到着したばかりでした。泗川城の在番は島津義弘。忠恒はその息子です。城普請は突貫工事で進み、約2か月で大体が出来上がりました。

激戦知られる「泗川の戦い」が起こるのは翌1598(慶長3)年の10月。8月に秀吉が死んで、朝鮮から撤退することとなりましたが、そこへ朝・明連合軍が襲いかかったのです。

明国の董一元を総大将とする20万人の大軍を前に、島津義弘は出城を放棄して家久と7千人の兵と共に泗川城に集結。押し寄せる軍勢を引き付けて、鉄砲の一斉射撃で壊滅させ勝利を収めたのだとか。その時挙げた首級は3万とも言われ、「鬼石曼子」(グイシーマンヅ)の名をほしいままにしました。日本でも「鬼島津」(おにしまづ)と呼ばれたりしますけど、そのまんまやんという感じです。あー、こわ。



虎口

案内板

解説板

城門

石垣

石垣

石垣

石垣

本丸跡


420年ほど前、「鬼島津」と日本軍がいた本丸跡は、今や桜の名所。春には約千本の桜が満開となり、花見客でいっぱいになるそうです。

そんな時に来られたらもっと良かったでしょうね。ぽつぽつと人影が見えるだけの城跡には、小鳥がさえずり新緑が風に葉を揺らしています。

慶長3年は、火薬と血の臭いがする秋だったんだろうな。多くの首級を挙げるのに、日本人だってたくさん死んだはず。故郷の家族の元に帰れなかった人たちは、朝鮮・明国人だけではないですよね。





本丸跡

本丸跡

本丸跡

本丸跡

天守跡


天守台の石垣は、「修復」にしてもこりゃひどいなというレベル。

まあいい、もういい、あるだけでも有難く思おう。

解説板にはやはり「天守閣址」とあり、これが英語表記で「Tenshuku」と。まあいい、これくらいはもう良いのです。

続きを読むと、2005年の発掘を経て、2007年に修復されたとあるので、ほぼ全て「修復」だと思うのがいいみたいです。そっか、そうなんだ。少しは元が残っていると想像してワクワクしてたけど、ぬか喜びだったかも。ま、それでもここに日本人がいて、日韓史で欠かせない戦いがあったのだから、ここに来られただけで十分です。ね!(←誰に言ってる?)



解説板

天守跡

天守台

天守には慰霊碑

天守跡にある解説板

海がある方向

慰霊碑

天守跡

泗川海戦の戦勝記念碑


天守台の向こうに小高く整備された所があって、オベリスクみたいな石碑が建てられているので近寄ってみると、「李忠武公泗川海戦勝捷記念碑」と刻まれています。

「忠武公」は李舜臣(イ・スンシン)の諡(おくりな)だと気付いたのですが、「泗川海戦」には聞き覚えがなく(汗)、慌ててググると、それもそのはず、日本側の記録にはない海戦だそうです。

碑文をざっと読むと、泗川海戦は壬辰倭乱の1592年5月に行われた海戦で、李舜臣が秘密兵器 亀甲船を初めて使い日本水軍を撃退したのだと書かれています。李舜臣や亀甲船は日本側資料に出てくるのに、泗川海戦の記述がないのはどうしてでしょうね? 日本軍が負けたんだとしても、敗れた将以外の諸将が記録に残しててもよさそうなものを。

もしかしたら・・・相手は日本人でも正規の日本軍ではなくて、倭寇だったのかもなと、ちょっと考えました。元々亀甲船は倭寇との戦いのために準備されていたというし、壬辰倭乱が始まってすぐの時期だったので、正規の日本軍だと朝鮮側は思ったのかもしれません。ただの思い付きですけどね (*´ω`)



勝捷記念碑

解説碑

本丸跡

石垣

石垣


あぁ、立派な石垣。高さはないから「高石垣」とは呼べなくて、・・・「低石垣」かな。積み方は確かに違和感あるけど、ここらで発掘された石ならば、当時使われていた可能性ありますよね?

後でたくさん他から石持って来て「修復」したんだとしてもさ、全部じゃないよね。それからメインの石垣とは違う所のものは、ここに遺構か痕跡があったから積んだんじゃないのかな。

「修復」と言われても尚、心惹かれるものがあるのは確かだったりします~♪


その他の戦いにも出撃


泗川からはその他の戦いにも出撃しています。蔚山城で加藤清正が孤立した時はこの城から長宗我部・池田両勢が水軍を率いて救援に向かっていますし、朝鮮からの撤退時に小西行長勢が順天城で包囲され動けなくなった際にも、島津義弘は水軍を編成して救援に駆けつけ、包囲軍を打ち破り、小西行長を脱出させているのです。

韓国の歴史ドラマとか観ると、李舜臣を英雄視して亀甲船スゲーってなっているためか、日本の水軍、激ヨワなんですけどね。でも「鬼島津」怖かったですよというのは史実のよう。義弘は朝鮮撤退時の殿軍を務め、全軍を無事に帰国させています。明から大軍が押し寄せていたことを思うと、私は島津贔屓じゃないけど、すごいことしたなとは思っちゃう。

文禄・慶長の役というと、加藤清正や小西行長が有名ですが、義弘の戦功が随一という評価があり、実際帰国後に五大老から褒められ、島津家だけが加増されています。その後すぐに関ヶ原の役となるので、誰もが戦いに明け暮れていた時代と言え、「あの時代の人、ほんとキツかったろうな」と思うんですけど。

それにしても土地の取り合い、侵略戦争って一体何なんだろう。こんな愚を犯して命からがら撤退したのに、またぞろ昭和には他国を侵略して原爆落とされてジ・エンドとなって、今がある。この平和を壊しちゃダメだなと痛感するしかありません。



石垣

石垣

石垣

石垣

石垣

石垣

石垣

石垣

事務所での出会い!


たくさん写真も撮ったしと、次の目的地に向かおうとしていると、入口で事務所のマダムに声をかけられました。

日本人が一人で見学に来ているから、「桜の季節でもないのに、どして?」と思ったみたいで。事務所に入ってかくかくしかじかと話すと、歩いていこうと思っていた次の目的地まで一緒に行こうと案内を申し出てくれました。

なんと感謝な~◝(⁰▿⁰)◜

ちょうど事務所を閉めて家に帰るところだからと車に乗せてくれ、途中様々な説明も。日本では得られる情報に限りがあるので貴重です。



朝・明軍塚へ


歩いてたら30分以上かかってたであろう朝・明軍塚に10分ほどで到着。途中人気(ひとけ)のない所もあったので、女性一人で徒歩は危なかったかもしれません。

守ってもらったんですね。神様を呼びながら旅すると、助けてもらっているのをしみじみ感じます。




しかしこちら、好意に感謝してニコニコしている場合ではない場所です。

「鬼島津」ら日本軍が3万もの首級を挙げて、戦功を証明するために鼻を削いで持って行ったのですが、遺体はそのまま残されました。そこで日本軍が去った後に、朝鮮の人が朝明両軍の遺体を集め葬ったのが朝・明軍塚です。

現在は一帯が史跡公園になっていて、資料館も建てられいます。



門の先

解説板

解説板(日本語)

朝・明軍塚の門


緑の園の中にある大きな門、その向こうに朝・明軍塚があります。

定まった敬拝日にだけ開けられる門なのでしょう。

第一印象は「思ったより大きい!」ということ。

3万もの遺骸を埋めたら山になりますよね・・・。



朝・明軍塚


門の横手から回って、朝・明軍塚の近くへ。何となく間近までは行けませんでした。ここからで十分ですと写真を撮って、しばし黙祷。

マダムには言えないけど、その頃の史料には、中国軍もまた本国に功績を示すため、朝鮮人の鼻を削いで、「日本人のものだ」と言って見せ、報告したと伝わっています。

兵士でもなく、庶民の鼻を削いだので、その後しばらくの間は、朝鮮では鼻のない者が多く見られたのだとか。日本軍もやっただろうけれど、明軍の横暴も歴史書には記されているのです。また、ここには朝・明の犠牲者が埋葬されているわけですが、日本人の犠牲者だっていたはず。生還できず、葬られることもなかった彼らの屍のことも考えずにはいられません。



朝・明の慰霊碑

朝・明軍塚

朝・明軍塚

朝・明軍塚

資料館


こちらが朝・明軍塚に隣接した歴史館。中に入って展示を見ながらガイドを受けます。

説明してくれるマダムも、私が日本人で、痛ましい表情を浮かべているのを見て、多少配慮して話してくれているように感じました。

語られている内容は、日本でも得られる情報を、韓国側から述べたもの。大きな食い違いはないようでしたが、泗川海戦は赤字で目立つように示されていました。ここは泗川だから、泗川海戦と船津里城戦闘が赤字なのは当然だけど。韓国の人は、この海戦が日本側の資料にないことを知らないみたいでした。



泗川海戦と船津里城戦闘

海戦の地図

壬辰倭乱

戦果の証拠に鼻を削いでいった日本軍

朝・明軍塚

朝鮮軍の主要武器体系

泗川海戦

露梁海戦

歴史館内


この歴史館と展示はここ数年でできたものなのか、とても新しいですね。広くはないけどきれいで、展示業者の手が入っているのか、ビジュアル的にも見やすい工夫が。

社会見学やエクスカーションで訪れる学生も多いのではないでしょうか。小学生から大人まで無理なく学べる施設になっています。

それはそれだけ歴史教育に力を入れているということを意味するので、日本人としてはここで「教育」される内容と、それが将来に与えるインパクトを知らないでいてはいけないんだろうなと感じます。



日本軍の主要武器体系

泗川海戦

日本に残る先祖の耳塚

展示室

船津里城発掘物

船津里城発掘物

船津里城発掘物

亀甲船模型

バス路線図


気まずいながらも見学を終えて、車内で対話しながら市中心部へ。晋州へは市外バスターミナルから向かおうと思っていたのですが、途中からでも乗れるということで、こちらのバス停へ。

自分で乗れますと言ったのですが、最後まで面倒をみてあげようと思ったのか、一緒にバスを待ってくれました。



バス乗車


30分くらい待つのかと思いきや、10分ほどでバスは到着し、無事乗車。「この人、晋州行くんだって、晋州!」と運転手さんに大きな声で告げてくれました。

バスの時刻に合わせてガイドもしてくれていたんだと後で気付きました。ささやかなお礼として渡せたのが非常食のお菓子(一応日本のものなので)だけで、申し訳なさが募りますが、有り難く思いながら車窓から泗川にSee you again。

何だかテレビ朝日の「世界の街道をゆく」みたいですね (*'▽')



街道ゆきます

晋州高速バスターミナル

地図

観光ガイド

晋州に到着


晋州市内に近づいてきたので、車内前方に移動して運転手さんに「晋州城に行きたい」のだと言うと、晋州の高速バスターミナルより、その先の市内バスターミナルで下りた方がいいとのこと。

周りのアジュンマ(おばさま)たちも「そうだそうだ」と加勢して、そのアジュンマたちと下り立った晋州。アジュンマが指差す先に晋州城が小さく見えます。

「ずっとずーっと真っ直ぐ」と言い残して去っていくアジュンマ。あ、ありがとうございます。しかし遠いなぁ、2キロ弱ある?



ずっとずーっと

小さく晋州城

晋州城の周り

晋州城の城壁

晋州城


歩いて30分ほどで到着。5月の爽やかな風の吹く中だから良かったけど、これ真夏の炎天下だったら危ないですね。

日陰とか一切ないので。タクシー乗れば良かったのですが、その知恵が浮かびませんでした。。

さて晋州城!晋州城は壬辰倭乱における三大激戦地の一つ。そびえる城門は近代の復元だろうけれど、当時こういった外観であったことは確か。約400年前には打ち破って入った城門ですが、今日はチケットを買って平和に入城☆



晋州城

晋州城

論介の石碑

中に博物館も

晋州城から南江を


城内から見下ろすと 、ゆるやかに流れる南江(ナムガン)とそこにかかる晋州橋。見たかった光景です。

先ほどバスで渡った晋州橋ですが、橋脚に指輪がデザインされています。これは日本の武将に抱きついて川に身を投げた論介(ノンゲ)という女性に由来するもの。

論介は抱きついて背中で結んだ左右の指がほどかれないよう、10本の指すべてに指輪をはめていたのだとか。日本人としてはため息をつくしかないけれど、同じ女性としてはすごいと思う気持ちもします。



晋州橋

南江

南江

南江

城内


城内は広く、そこにある建物、記念物も多いので、一つ一つご紹介することはできません。私も初めて来たので、どこに何があるのか、それが何を意味するものなのか知識が追いつかず。

しかしまず、晋州城では二回戦いがあったことをおさらいしておきましょう。1592(文禄元)年11月の第1次晋州城攻防戦と、翌1593(文禄)年7月に日本軍が再侵攻した第2次晋州城攻防戦です。

第1次の際に日本軍が敗退したため、第2次が起こり、第2次では日本軍が勝利しました。これらの戦いで兵士と城内にいた避難民合わせて7万人が壮絶な死を遂げたと伝えられています。



城門

城内

城壁

記念碑

城内

城内

城内

城壁

義岩


こちらが義岩(ウィアム)。これに向かって論介が身を投げたとされる岩です。

論介は妓生(キーセン。酒宴などで舞楽を披露して接待する芸妓)だったので、第2次晋州城攻防戦で勝って湧く日本軍の酒席に呼ばれ、そこでそのような義挙(朝鮮側から見たら)に出たわけですね。

論介に殺された武将の名は不詳でしたが、いつの間にか加藤清正配下の武将 毛谷村六助(けやむら・ろくすけ)であるとされ、今日に至っています。



義岩と川べり


義岩を望む川べりには祠が建てられており、ラジオをかけて涼むおじさまが。

階段が急で手すりもないので(「危険」と書かれている)、私は手前から眺めるに留めました。

一幅の絵のようではあります。



矗石楼


義岩から上がったこちらが矗石楼(チョッソンヌ)。

高麗時代の1241年に建造された楼閣で、有事には司令本部として、平時には科挙試験場として使われていたのだそうです。

現在の建物は1960年頃復元されたものですが、壮麗さは往時のままかと。床に座って、ひと休み。川風が心地いいです。エンドレスで流れている解説音声が、壬辰倭乱・日本軍・論介の話なので、聞いているうちにお尻がムズムズしてきてしまいましたが。

晋州では年に一度、論介祭が行われていて、その日ここでは論介のような妓生に扮した女性たちが踊るのだとか。日本でいう芸妓さんの舞ですから美しいことでしょうね。日本との戦いの物語が美しい芸能と相まって、将来に伝えられていくのは・・・少々懸念するところではあるけれど。





矗石楼

矗石楼

矗石楼

矗石楼

楼閣

楼閣

楼閣

楼閣

南将台とも

南将台

南将台

解説板

義妓祠


南将台とも呼ばれる矗石楼の隣には、義妓祠(ウィギサ)があり、中に論介の肖像画が掲げられています。祠だから、論介を祀っていると考えていいのかな。

クリスチャンの多い韓国では、偶像崇拝や人物を拝むことが忌避されると聞いたことがあるけど、こういった祖国のために戦った義士、烈士は別のよう。



義妓祠

論介の肖像画

論介について

南江

晋州橋

論介肖像画と内部

義妓祠


双忠事遺碑


義妓祠の向かいにあるのが双忠事遺碑。立派な屋根と柵で保護されています。

第1次晋州城攻防戦の際に義兵(民兵)を起こし、戦死した諸沫(ゼマル)将軍と将軍のいとこの功績を称えるために作られたそうです。

慶尚南道の有形文化財に指定されています。

壬辰倭乱には各地から多くの義勇軍が参戦しているんですよね。彼らによるゲリラ作戦が功を奏した部分も大きいです。



双忠事遺碑

双忠事遺碑の石碑

解説板

晋州城井戸


こちらは晋州城内の井戸。現在は形だけです。

第2次晋州城攻防戦に勝ってこの城を占拠してからは、この水を日本軍が飲んでいたわけですね。

戦いを順を追って見ていくなら、第1次晋州城攻防戦に参戦したのは、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲ら。兵は2万人ほどでした。

迎え撃つ朝鮮軍の指揮官は晋州牧使(モクサ。地方長官)の金時敏(キム・シミン)、兵は3千8百人ほどだったと伝えられています。攻城戦には十倍の兵力が必要といわれるので、大軍といえど十分でなかったとみられます。

金時敏の戦略も秀でていて、日本軍は敗退。金時敏自身は、この戦いで負った傷が元で死亡しましたが、朝鮮で英雄視されるようになりました。その時朝鮮軍が飲んでいたのもこの井戸の水。



解説板

晋州城井戸

晋州城内

晋州城内

晋州城内

晋州城内

金時敏像


ありました、金時敏像! 晋州城の英雄だからどこかに像が建てられているとは思ってました。

第1次晋州城攻防戦は少数の兵で日本軍を撃破したので、韓国では「晋州大捷」として壬辰倭乱における三大大捷の一つに数えられています。「大捷」とは「大勝」のことです。

苦戦した日本でも金時敏は伝説化し、「木曽判官」(もくそほうがん)や「もくそ官」(もくそかん)という名で、歌舞伎や近松門左衛門の浄瑠璃の中に登場します。

晋州牧使(モクサ)の「モクサ」が「もくそ」となったわけですね。勇猛果敢な戦いぶりが日本本国にも伝えられたのでしょう。



金時敏像

金時敏解説

拱北門

晋州城内

嶺南布政司の楼門


金時敏像の横手を進むと、「嶺南布政司」と書かれた楼門が。この時代は漢字を使っているので読みやすいですね。

左右にはリアルな等身大兵士像が立っています。手前には周辺から集められた石碑群。

建物も石碑も多くて一つ一つのんびり見ていられないので、先に進みます~☆



解説板

下馬碑

石碑群

石碑群解説板

石碑群

楼門

慶節祠

解説板

石碑

建物跡

将台


砲楼


楼門を真っ直ぐ進むと博物館なんですが、先に城壁の内部をぐるりとめぐってみます。

晋州城は南に南江が流れる要害の地で、現地に来て歩いてみると、城内でも結構アップダウンがあります。城を攻めるのに比較的易しそうなのが東側。今日入って来た城門の方向ですね。

北側の拱北門は当時城の正門になっていたそうで、そちらも守りが堅かったでしょう。北から西にかけての、ちょうど今いる辺りは、眼下が急な崖になっていて、大砲を撃ち下ろすのにもってこい。

第1次晋州城戦で敗退をきたした日本は、第2次に臨むにあたり相当この地理的優位性をどう攻略すべきか悩んだでしょうね。


第2次晋州城攻防戦


第2次晋州城戦には、総大将の宇喜多秀家以下、黒田長政・加藤清正・島津義弘・鍋島直茂・石田三成らが参戦。錚々たるメンバーです。兵力は約4万4千人。こんな大軍よく日本から送ったものだと思います。
布陣は、城の東側が黒田長政と加藤清正、北側が島津義弘と鍋島直茂、北東側が宇喜多秀家と石田三成で、その他多くの軍勢がその後方に構えていました。

直上の城壁からの攻撃に対して考案されたのが「亀甲車」と呼ばれる装甲車。周囲からの攻撃を防禦しつつ城壁に取り付いて破壊するもので、開けられた穴から日本軍が乱入して一気に城を落としました。

この「亀甲車」のアイデアは、キリシタンだった黒田官兵衛が宣教師から得た西欧の知識を元にしたのだという説もありますが、李舜臣の亀甲船を陸用に転用したのではないかという説もあり、どちらも憶測の域を出ません。

いずれにしても、ここから日本軍は攻撃され、死者も多数出たのだろうと。第2次晋州城戦は日本軍が勝利したのだけれど、私としては異国で命を散らした無名兵士のことを思わないではいられません。



当時の大砲

晋州城から

晋州城内

晋州城内

書院

解説板


国立晋州博物館へ★


国立晋州博物館


では城内にある晋州博物館へ。1984年に開館した当初は、晋州が古代において伽耶の都市だったことから、伽耶文化を紹介する展示でしたが、その後壬辰倭乱にフォーカスを当てたものに切り替えられたそうです。

特に常設展示室は半年ほど前にリニューアルされたばかりで、建物も展示もおニュー感が漂います。

3Dシアターと書かれているけど、これ3Dなのかな。迫力の映像が流れていました↓。内容はもちろん壬辰倭乱。なまじカッコいいだけに若者への刷り込みを懸念 (;´Д`A ```





壬辰倭乱室

日本語解説

壬辰倭乱概観

砲弾

シアター

名護屋城

豊臣秀吉

晋州城合戦図

権将軍肖像画

柳成龍の甲冑

晋州城合戦図

武器

展示室


展示室には、柳成龍(リュ・ソンニョン)の甲冑や『懲毖録』(ジンピロク)なども↑。

柳成龍は壬辰倭乱の時の宰相で、国王の宣祖(ソンジョ)を補佐し、李舜臣を抜擢するなどしました。号は西厓(ソヘ)。

引退後、壬辰倭乱の始まりから終わりまでを慨嘆しながら執筆した『懲毖録』は、当時起こった様々な事柄と成り行きを政権中央にいた人物が書いた貴重な記録。

以前ソウルで大谷吉継陣所跡を探していて柳成龍の屋敷跡を見つけて以来(詳しくは「ソウル松山キリシタンの旅3」に)、関心を持っていました。今回も旅行に先立って韓国の歴史ドラマ「懲毖録」を見ちゃったりして(←本の方読めよ)。とりあえずは甲冑と本物の『懲毖録』を目にできて満足。こうやって次にもっと勉強して来るようになる…はず☆


倭城のことも


韓国各地に残る倭城(ウェソン)の解説パネルと写真もありますね。こうして韓国人は国内に今も残る倭城のことを認知・周知していますが、日本人の中にはどれだけいますかね?「倭城」という単語を知っている人が。これも歴史ギャップの一つではないかと感じます。



刀と槍

明軍について

日本軍の装備

鳥銃と刀で攻撃した日本軍

長刀など

倭城

倭城について

倭城の写真

数字で見た壬辰倭乱


「数字で見た壬辰倭乱」の解説パネルはかなり衝撃的。

兵糧米や動員された馬の数、当時の日本人・朝鮮人の体格比較など、「へえー」と見ていられるものもありますが、京都の鼻塚に埋められた朝・明軍の鼻の数21万4千個余りというのは、何と言ってもいいのか・・・。

この数どうやって数えたんでしょうね?掘り起こしたとは聞いたことがなく、この数字も私は初見です。何かの記録に書かれている個数を足したのか? ともあれ、こういった情報がこちらでは提供、時には教育されているということを私たちは覚えておく必要があるのでしょう。恨(ハン)の歴史、深いなと。



日本人・朝鮮人の体格比較

京都の鼻塚に埋められた朝・明軍の鼻の数

主要人物たちの年齢

壬辰倭乱 功臣の数

土器の展示


先史時代の土器なども美しく展示されており、その周囲をめぐりながら現代に至る記録物を見学できるよう順路が組まれています。

壬辰倭乱は1592~98年の7年間の戦争ですが、戦争という形での最悪の国際交流であったと言うことができ、交流のあるところに影響が残るのは確か。

現在まで続く深いひびを生んだ戦いの背景と、そこから生まれたものを知ることで、互いの国へのイメージがどのように形成され変容したかを知る手掛かりになるのかもしれません。まずは学ぶことですね。



記録に残る7年の戦争

記録類

『壬辰録』

『太閤記』

晋州城で発掘された瓦

晋州城での勝利を王に報告した文章

論介の肖像画

論介の肖像画

亀甲船


朝鮮は李舜臣率いる水軍が強かったことで有名。

歴史上の英雄と言えば、誰もが「李舜臣将軍!」と答えるそう。

亀甲船(コブクソン)は李舜臣が乗船して戦っていたとされる軍船ですが、日本側の資料にはなぜか記載されていません。ウソとは言いませんが、多少伝説めいたところがあるのは事実。しかしそれを日本人が指摘したら国際問題になってしまうくらい、「李舜臣将軍!」なんですよね。



不敗の神話、李舜臣の水軍

水軍の船

水軍を訓練している図

日本の船

朝鮮・日本の船

李舜臣

李舜臣が送った文書

壬辰倭乱の時の文書

文化伝播と交流


この戦いには、人の移動を通して文化が伝播したという側面も見落とせません。

朝鮮から連行されて来たり、大名からの招きで自ら来日した人々が様々な文化的・工芸的技能を日本に伝えました。

朝鮮人儒学者は、大名らに学問や書画文芸を教え、陶工は大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝え、日本の文化的向上に寄与しました。

これらも究極の国際交流が生んだものと考えることができるでしょう。



文化伝播と交流

陶磁器


秀吉が技術者を捕まえて来いと命令した文書

儒学の発展をもたらした李退渓の文集

陶工

国際的影響

朝鮮人来聘記

朝鮮通信使

釜山にあった倭館

朝鮮通信使

江戸へ

統一新羅時代の石碑


薄暗い所で照明を受けていたのは、泗川 船津里で発見された統一新羅時代の石碑。

これは日本や壬辰倭乱とは関係ないですかね。

統一新羅時代から朝鮮時代にかけて、この地域はどんな特色があったかを示す史料が展示されていました。



説明

地域の歴史的特色

拓本

文書

絵画

器など

木版

工芸

ライブラリー


順路の最後は、土器など考古学的資料とライブラリー。ちょっと変わった順路設定だけど、先史時代がラストなんですね。それも一興ですか♪

日本語でも書かれている「展示を終えて」には、「勝者と敗者という観点から歴史を眺めるよりも『戦争の実状』を知り、『世界の平和と人類の共栄』を真剣に考えることのほうが、この時代の命題であることを私たち皆がよく知っています。」と。

ほんと、その通りですね。こういう戦いのあった場所に「日本人の私が来て、見て、大丈夫なのかな?」と思っていたのですが、ここでは共に栄える未来のために知ることを奨励しているようです。また、「堅苦しい歴史的事実の情報伝達をするよりも、くつろげる休憩スペースを提供(します)」とも。

新石器時代の土器や金銅製の装飾品を見ていると、やはり日本と似ているなと思うしかなく、古からの縁、文化交流があったのだと感じます。様々な交流を超えて、これからまた、ですよね (*^-^*)



「展示を終えて」

考古学的資料

考古学的資料

金銅製の装飾品

金銅製の装飾品

何と素敵な高坏!

土器と顔

甕など

斗庵室


博物館にはこの他に、泗川出身の在日韓国人故キム・ヨンドゥ(1922~2003年)が寄贈した文化財を展示する斗庵(トアム)室が。

なかなか素敵です。私は陶磁器や工芸品に詳しくないけど、見ているのは好き。時間忘れそうになりました♪


キム・ヨンドゥ

特別展示室

ハンアリ

陶磁器

陶磁器について

陶磁器

陶磁器

陶磁器

三つ葉模様のチャングン


これは花瓶かな?説明には「三つ葉模様のチャングン」とあり、「チャングン」の意味がわからないのだけど。

何とも素朴で愛嬌がありますよね。こういった工芸品を見ていいなと思うと、これを作った作家たち、作家たちが生まれた韓国にも親しみと尊敬が湧いてきます。

だからその国の人たちが作った作品に触れることも立派な国際交流なんだろうなと思います☆彡



陶磁器

作品

解説板

工芸品

工芸品

工芸品

工芸品

工芸品

神機箭


エントランスホールに展示されている、おーこれは、貨車から一度に100~200発の火矢を発射できる神機箭(シンギチョン)ですね。

こんなのが雨霰と降って来たかと思うと、日本軍も大変だったろうなと(大変じゃ済まない;;)。神機箭の他にも、世界初の2段ロケットである散火神機箭など、朝鮮は火薬武器に優れていたんですよね。あぁ、見ているだけで痛くなってくる。。



神機箭

解説板

神機箭

三層石塔


博物館の外には三層石塔が野外展示されていました。何が刻まれているのか顔を近づけたら、警報が鳴ってびっくり。

普通の柵かと思いきや、警報装置のようで、身を乗り出すだけで作動するようになっていました。テクノロジー!(←反省しなさい。

青々とした芝生広場の横手に点々とプレートが埋め込まれているので何かと思ったら、李舜臣や金時敏らの言葉でした。なんとなんと、なんと英雄視していることか。全部壬辰倭乱(文禄の役)の時のものですね。



三層石塔解説板

三層石塔

三層石塔の基壇

李舜臣の言葉

芝生広場

金時敏の言葉

郭再祐の言葉

高敬命の言葉

大砲


こちらは大砲のレプリカ。解説板によると「銃筒」(チョントン)というそうです。南江の方に向けられています。

南江と大砲で守られたら、こっち方向からの攻城はまず無理でしょうね。

日本軍は水路を掘って南江の水を他に逃がし、水底が見えると土石と柴草を投げ込んで平坦にして、そこを渡ろうとしたみたいですが、上から銃筒などで撃ち続けられて、こちらからの攻城を断念したと伝えられています。

戦争って、人力や戦闘力だけでなく、土木や火器銃器、先端科学技術まで動員した総力戦なんですね。だからその一角でも弱ければ途端に不利になってしまうわけで。秀吉の無謀な命令せいでここで死傷した人たちのことを思うと、勝っても負けてもそれが何だろうという考えが浮かんできます。

命を殺し、殺させたら、それ自体が何かに負けている証左のような気がして。戦争は、人が欲に負け、誘惑に負けた証拠、愚かさの証明ではないかと思います。



解説板

解説板

南江の方に

南江

南江沿い

城内

拱北門

拱北門

冷麵


泗川から晋州までの移動がスムーズだったおかげで、心ゆくまで見学できた晋州城。それではお昼にしましょうか(もう3時過ぎてますが)。

そば粉入り麺の冷麵、コシがあってウマー。火照った頭と体をクールダウンできてひと安心。このままじゃ危ないと思っていたので、少し涼んでいきましょー(=゚ω゚)ノ


冷麵屋さん

店内

そば粉入り麺

殉教地目指します


それでは街歩き再開。殉教地を目指します。歩き始めるとすぐ教会発見。晋州中央教会だとか。病院かオフィスビルみたいですね。

少し歩くと壮麗な建物の大韓イエス教長老会中部教会。どちらも探して観に行かなくても、ふつうに歩いてて出合うという点が日本と違いますね。



晋州中央教会

大韓イエス教長老会

大韓イエス教長老会

慶尚右兵営跡


歩いて15分ほどでしょうか、慶尚右兵営跡に着きました。現在は病院のようですね。

韓国では病院でお葬式までやっちゃうと聞いて「ウソ!?」と思ってたんですが、そこだけ黒くなった「葬礼式場」入口を見つけて、本当だったんだなと@@;

さすがに来院受付と違う入口が設けられているんですね。合理的と言えば言えなくもないけど・・・。所変わればってやつですか。



葬礼式場

敷地

晋州鎮営址


ここかなぁ?と確信を持てずにいたら、駐車場の端に解説板を発見。

「晋州鎮営址」とあります。ここで間違いないようですね。

晋州鎮営は朝鮮時代初期には慶尚右兵営と呼ばれていましたから。

どちらもこの地方の治安維持を担当する警察署のような役所のことを言います。朝鮮時代後期には、ここの役人が「討捕」(トポ)活動を管轄していたと書かれているので、禁教令下の当時クリスチャンを逮捕したりしたのはここにいた役人だろうと考えられます。



解説板

解説板

晋州鎮営址

晋州鎮営址

晋州獄跡


晋州の獄跡は現在、中央公設市場になっている辺り。獄にはキリスト教信仰のために逮捕された信徒が収監され、拷問を受けました。また絞首刑に処された信徒もいるので殉教地ですね。

今は賑やかな市場・・・。そのギャップに驚くのは日本と同じです。


殉教地跡はどこ?


残念ながら、殉教地跡がどこなのか、ピンポイントではわかっていません。碑なども立っておらず(韓国にしては珍しいかも?)。

だけどこおで殉教した人たちの名は伝わっています。鄭燦文(チョン・チャンムン)と尹鳳文(ユン・ポンムン)という信徒だったと。

1867年と1888年のことで、1866年の丙寅(ピョンイン)迫害が引き金になったようです。

韓国では、1791年の辛亥(シンヘ)迫害から1866年の丙寅迫害の期間に各地で多くの人が処刑され、その数は一説には1万5千人とも。私は1万人くらいではないかと考えていますが、それにしても膨大な数・・・いえ、血です。



中央公設市場

中央公設市場

中央公設市場

中央公設市場

晋州市外バスターミナル


今日見るべきものは見たなと思い、晋州市外バスターミナルでまったり。気の利いた食堂は無いけれど、コンビニでお菓子とジュースを買って乗車準備完了。

家を空け、一人旅をさせてもらっていることに感謝して、ダーリンにもLINEしておきましょう(仕事中だからすぐには見ないけど)。

行き先別窓口を見ていると、ここから統営や蔚山にも行けるんだなーと、次の旅ココロが浮かんできちゃいます☆



大邱・トック通り


大邱に戻ってきて、宿までの道を今日はトック通り経由で帰ります。トックとは韓国のお餅。粘り気があって伸びる日本の餅とは違い、韓国のは噛み切れる餅。トックで誕生日ケーキを作ってプレゼントしたりします。

皆大好きトックなんですが、ご多分に漏れず私もということで、夜食と朝食用に買い求めました。日持ちがしないのでお土産にしにくいのが難点。当日買えたらいいけど、帰国日は朝早いからなぁ。今回は自分だけで楽しませていただけます (#^^#)ジュル




フロイスの「日本史」に描かれた文禄・慶長の役


壬辰倭乱、つまり文禄・慶長の役の時の日本は、キリスト教が伝えられてから半世紀、タイミング的には、キリスト教受容と迫害の端境期でした。その頃日本にいたのが、稀代の文筆家ルイス・フロイス。イエズス会宣教師なのですが、記録魔と言ってもいいくらい詳細に当時のことを書き記していて、今では貴重な一次資料となっています。

フロイスは朝鮮に渡っていませんが、キリシタン大名小西行長とその家臣団から情報を得ることができ、日本イエズス会上長の書記であったので、各地の宣教師から届く報告を全て閲覧することができました。日本人キリシタンの中には秀吉の側近も幾人かいた上に、多数の信徒がこの戦いに従軍していたので、豊富に資料を手に入れることができました。

それゆえフロイスの書いた「日本史」には文禄・慶長の役の記録も多く残されています。「日本史」全般に言えることですが、フロイスの精細な記録は正確であり、信憑性が高く、彼が持ち前の才能を駆使して、従軍した将兵から情報収集に励んだことは察するに難くありません。

いささか(?)キリシタンを賛美する傾向があり、粉飾と誇張が見られるので、その辺は割引かないといけませんが、日本・朝鮮・中国のいずれにも当たらない外国人の視点から描かれているので、当事者よりも客観的な記録であることは確かです。

そんな、後代において参考になる資料を宣教師を通して残してくれたことに、私は神様の指を感じます。そのおかげで見えてくるものがあるので。歴史問題で揺れる日韓関係ですが、両国の和解に「日本史」が役立つなら、フロイスもどんなに喜ぶでしょう。フロイスも当時の人も見られなかった和解の日を、私はこの目で見てみたいな。





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