本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 続・蒼き切支丹回廊3    スマホ版は⇒コチラ

 続・蒼き切支丹回廊 3


昼スタート


今日もガシガシめぐる気満々でしたが、突然の体調不良。そう言えば私、この一ヶ月後に人生初の手術を控え、それに備えた投薬しているんでした。少しはセーブしなきゃいけなかったんですね (;´Д`A ```

とりあえず午前中は大人しく過ごし、お昼からスタート。まずはご飯を~☆ 一人焼き肉&サラダバー・・・って、あまりセーブしてない気もしますが。


本原教会


今日は生憎の雨模様なので、足元もおぼつかない感じ。バスで本原教会を目指します。歩けるかなとも思いましたが、バスで正解。

やっぱり長崎は坂の街ということで、ゆるくカーブした坂道が延々続いていて、乗って良かった~という感じでした。「本原教会前」バス停で下りて、入口まで急な坂を上ると大きな聖堂が。

神父様に挨拶をして中に入れてもらいました。聖堂内は写真撮影不可でしたが、現役の教会らしく、信徒さんの持ち物などが置かれていて親しみがわきます。薄いブルーの壁が素敵。祭壇正面のキリスト像はとてもクラシカルな印象です。

この聖堂の守護聖人は26聖人の一人聖ペドロ・バプチスタなので、聖堂内にバプチスタと聖フランシスコの聖遺物と銅製メダイのようなレリーフがあります。聖堂入口で片手を上げて迎えてくれるのもバプチスタ神父。聖堂の向かって左横手で両手を広げているのは「み心のイエス像」とのこと。招いてくださっている感じがします。



み心のイエス像

本原教会より

本原教会

バプチスタ像

マリア山


本原教会と言ったら、是非こちらを見なければなりません。

信徒からは「マリア山」と呼ばれる一本木山です。

聖堂の裏山にあたるのですが、ここが潜伏キリシタンの祈りの場所で、「旅」に出る前にロケーニュ神父が信徒を励ました所でもあるのです。「超」が付くほど重要なスポットで、雨の中立ち尽くして眺めていると、静かに感動が押し寄せてきます。雨で良かったかもしれませんね、迫害の嵐の中にいた人たちのことを思うには。



解説碑

一本木山

十字架の道行

バプチスタと殉教者

聖フランシスコ修道院

司祭

聖像

本原郷をゆく


本原と言っても広いんだなと思いながら、聖マリア堂跡に向かってテクテク。今度は坂を下っていくだけなので楽勝です。

聖マリア堂は、信徒発見の1865年からの3年間に、浦上村内に4ヶ所設けられた秘密礼拝堂の一つ。山里本原郷字平にありました。あとの三つは、本原郷字辻の聖ヨゼフ堂と、家野郷のサンタ・クララ堂、中野郷の聖フランシスコ・ザベリオ堂です。このうち後者2ヶ所は行ったことがあるので、今日は前二つを訪ってコンプリートを目指したいと思います。



聖マリア堂跡


「どこかで曲がらないといけないはずだけど・・・」と思っていたら、バス停「平の下」脇に案内が出ていて、無事見つけることができました。めっちゃ普通の民家前に石碑と解説板が出ています。

1867(慶応3)年7月15日の早朝、最後の水方を務めていた又一の自宅裏山にあった聖マリア堂に幕府の手入れがあり、朝の礼拝を行っていたロケーニュ神父は裏口から逃げて難を逃れることができましたが、又一の子で伝道士を務めていた友吉は捕らえられ、他の信徒と共に津和野に流配されることになったと書かれています。

津和野と言えば、信徒の中でも特に堅固な信仰の持主たち、「キリシタンの精鋭」が送られた流配地。高木仙右衛門や守山甚三郎らが拷問を受けた場所として知られていますが、ここからも送られて行ったんですね。

現場に立つことで、どんな思いがするのだろうと思っていたのですが、あまりにも普通に民家が建ち並ぶエリアの中にあるので、まずは意外で、次に慄然とさせられます。ギャップがすごくて。荒々しく捕吏が踏み込んできて平和な日常が壊されたことが、段々とわかってくる感じです――。


68人が捕縛された嵐の夜


浦上の信徒68人が捕縛されたのは、1867年7月15日(慶応3年6月14日)。前夜からの豪雨が明けた早朝3時、長崎奉行所の公事方掛役人がこの聖マリア堂に踏み込みました。ロケーニュ神父がキリシタンたちに教理を教え、洗礼を授けるために潜んでいたのですが、神父はその時のことをこう書き記しています。


7月13日の土曜日、私は15日ほど滞在する予定で、長崎から浦上に移りました。プワリエ神父も月曜の夜には聖マリア堂に来て、私を手伝ってくださるはずでした。クゼン神父は同じ頃サンタ・クララ堂に行って、キリシタンたちに宗教のお務めをさせることになっていました。

土曜の夜も、日曜の昼もきわめて平穏に過ぎました。雨にもめげず、たくさんのキリシタンたちが宗教のお務めをするために来ており、近くの家々では深い眠りに入っていました。

月曜の朝3時頃、私の小さな部屋の戸を荒々しく引き開けて、「捕らえに来ました。早く逃げてくだされ!」と、家主の市之助が叫びました。市之助は平(ひら)の三八の子である。

神父の制服の上に、日本の上衣を引っかけて家を出ました。伝道士の達右衛門と二人の青年がついて来ました。私たちが裏口を出たのと、捕手が表から入るのとまったく間一髪のことでした。


この後ロケーニュ神父は森の中に隠れ、追っ手をまいて大浦天主堂に戻りました。この朝の手入れで聖マリア堂は散々に荒らされ、祭具も全て持って行かれました。水方の又一の子で、父に代わって伝道士として働くことになった友吉は捕らえられて打ち叩かれ、半死半生になって放り出されました。

この時ロケーニュ神父と行動を共にしていたのが、一昨日偶然お墓を見つけた深堀達右衛門。信徒発見以降、将来神父になることを目指す若者たちが大浦天主堂に隠れて勉強に励んでおり、彼らは浦上キリシタンが「旅」に行っている間、海外に避難して勉強を続け、高札撤去後、神父となって働きます。



聖マリア堂跡

解説板

階段を上る

十字架山へ


聖マリア堂跡から次なる目的地の十字架山へは、もっと階段を上って行けば到着できるよう。

若干迷って、同じ道をグルグルしましたが、案内を見つけてホッ。素直に示される通りに行けば良いのですね。

しかしまぁ、坂・坂・坂!の連続です。どっちに行くにも坂。雨で滑りやすくなった足下が危険なので用心して横歩きで進みます。あー、もう上りたくない。。(←思わず出る本音;;)


聖マリア堂の下に岩永マキの家


今は誰の所有かわからないので周囲の写真を撮るのを控えましたが、聖マリア堂の下には岩永マキの家がありました。明治7年に赤痢が長崎で猛威を振るった際に、大浦天主堂にいたド・ロ神父を手伝って浦上信徒たちへの医療奉仕を率先して行った女性で、修道院(現在のお告げのマリア修道院につづく)を立ち上げることとなりました。

1867年7月15日の早朝、戸をどんどんと叩く者があったので、マキが戸を開けると、立っていたのは陣笠をかぶり腕まくりをした5,6人ばかりの捕吏。その夜男たちは聖マリア堂に、女たちは市蔵の家に泊まっていたため、マキが応対したということです。

それから騒動が・・・。マキはこの時20歳。この後の浦上信徒流配ではマキは岡山藩に預けられて、鶴島という離島で強制的に原野の開墾をさせられました。


最後の水方 又一の家


潜伏キリシタン組織の指導者で2番目にあたるのが水方ですが、又一の家の裏に聖マリア堂はあったと文献に出てくるので、この近辺には又一も住んでいたはずです。具体的にどこの家がその跡地なのかわかりませんけど。

又一は、浦上三番崩れ(1856~1860年)を経て、当時生き残っていたただ一人の水方でした。密告によって始まった浦上三番崩れでは、キリシタン組織トップにあたる帳方の吉蔵が獄死して、子の利八は所払い(追放)となったため、初代から7代続いた帳方が途絶えてしまいました。

また4人の水方のうち3人までが死亡して、浦上のキリシタン組織は総崩れになっていたのですが、それを支えていたのが又一でした。水方とは洗礼の授け役で、この辺りの人たちは皆又一から洗礼を受けていたと考えられます。又一・・・。聖マリア堂跡だけでなく、一帯が史跡地と言えるでしょう。



十字架山へ石碑

十字架山


最後の心臓破りの階段でヨレヨレになって、なんとか頂上に十字架山に到達。見晴らしがいいかと思いきや、民家に囲まれているため眺望は・・・住宅街ビューです。

ここは1881年、「旅」から戻ってきた浦上の信徒たちが、この地がキリストの処刑地ゴルゴダの丘に似ていることから十字架を建てた場所。

1950(昭和25)年、教皇ピオ12世によって公式巡礼地に指定されました。解説板にはこう書かれています。


禁教が説かれ、信仰の自由を守り通したことへの神のご加護を感謝し、心ならずも絵踏を行った信者の罪と、多数の信者を殺りくした為政者に赦しをいただくために、贖罪と感謝の場所として主キリストの受難の聖地・カルワリオに似たこの丘が選ばれた。


贖罪と感謝を覚えるための場所なんですね。多くのキリシタンを殺しさえした為政者の罪まで許してもらえるよう祈るというのも、高い境地の祈りではないかと。本当に勝利するってこういうことですね。



十字架入口

解説板

十字架山

15の十字架


十字架山は、奥に大きな十字架が一つと、周囲には小さめの十字架が14本建てられています。そっか、全体が十字架の道行になっているんですね。

入口に近い十字架から順番に祈ってめぐり、最後15番目の復活の場面が大きな十字架で、ここが祭壇にもなっているようです。

さて、この十字架山(明治大正まではクルス山と呼んでいた)に最初に十字架が建てられたのは明治14年9月14日。その時の十字架は木製で3m余りのものでした。発起したのは高木仙右衛門や守山甚三郎、岩永マキらで、村中の人びとが賛成し、協力したということです。

面白いのは、「一週間かけて男60人が十字架を山頂に運んだ」と記録にあるので、「木製の十字架ってそんなに重いんだ~@@」と言う人がいること。実際はそんなに人手を要しなかったのですが、村人全員で協力し真心を捧げようと、めいめいが来て担いでいったら時間がかかり、結局一週間もかかったということです。木製で3mならそこまで重くないですもんね (^_^;)


十字架を建てた理由


高木仙右衛門が十字架を建てることを発起したのは、2つの理由からでした。まず、浦上の潜伏キリシタンは1857(安政4)年まで7世代約250年にわたり、毎年絵踏みをし続けていたので、そのことへの悔い改めです。毎年主を踏んできた祖先の罪と、それを強制した為政者の罪を思うとき、自由に信仰を表明できるようになった今、その償いのために十字架の前に額ずいて神の赦しを祈ろう、そしてこれからの子孫代々永くそれを祈り続けなければという思いです。

そしてもう一つは、仙右衛門が浦上四番崩れで長崎奉行と2人で対峙した時、このように述べたからでした。

「将軍さまも、お奉行さまも、キリシタン宗を厳しく御禁制あれども、キリシタン宗はよき教えでござりますれば、必ず、御禁制がとかれ、大声にてオラショできる日が参りまする。そのとき、浦上の高き山に、大きなる十字架(クルス)をたて申して、大声にてオラショいたす所存でございまする。しかとお約束いたしまする」

嵐の夜、そして全国に配流されていくという時に、未来を見据えた勝利宣言を仙右衛門はしていたのです。その「お約束」の成就が十字架山への十字架建立だったわけですね。これまでの経緯と当事者たちの思いを知ると、より感動が深くなります。



祭壇

十字架山

十字架山

十字架山

十字架山から


十字架山から眺めると、空をバックに一つの十字架が。あそこが本日最後の目的地、サン・ヨゼフ堂跡ではないかと目星を付けます。

上ったり下りたり、住宅街を行くか、それとも大通りに出て坂道を上るか考えどころ。とりあえず十字架目指して歩きはじめましょうか。

またもや坂・坂・坂ですが、行きたいんだからしょうがない。それにこの坂道がマキや皆(←皆って言い方がもう仲間気分?)が通っていた道なのだろうと思うと、恵みが満ちてきます♪(←単純w)



岩永マキと十字会


岩永マキを思うと、絵踏みをしたことへの悔い改め、絵踏み謝罪式のことを語らずにはいられません。上述のようにマキの医療奉仕が元となって修道院(十字会)が成立していくようになるのですが、マキが同志の女性たちと継続してやっていたのが、祖先7代と自分たちの絵踏みの罪を悔い改め、許しを求める特別なお祈りをすることでした。

毎日5人ずつ交替でその祈りは続けられました。その日の当番の人は「ぜぜん」(断食のこと。キリシタン時代にそう呼んでいたのでそのまま使った)をしたそうです。

十字架山の敷地も当初は買い取る資金がなくて借地だったのを、十次会の女性が天草の教会で神父の賄いとして働き、その給料一年分を持って帰ってきたので、それでこの敷地を買い取って、信者一同の所有地にしたのだとか。ほんと女性たちの働き、めざましいものがあります。

そうして十字架山でも絵踏みの贖罪のための祈りがあり、十字会ではのちに修道院の建物も建設して礼拝堂もできましたが、そこでも絵踏みの償いのための祈りが当番5人でされていたということです。


3月16日に絵踏み謝罪式


1915(大正4)年3月17日は、信徒発見から50周年にあたる節目でした。キリシタンが復活した恵みを祝おうと、その式典は5千人の信者が参加して大浦天主堂で行われたのですが、その前日の3月16日、早朝から行われたのは絵踏み謝罪式でした。これまでの罪を償うための絵踏み謝罪記念日として特別に設けられたのです。

3月16日も多くの信徒が集まって天主堂は超満員となり、早朝から夕方まで司祭の説教やミサが行われ、祈りが捧げられたのだとか。堂内に入りきれない人たちは玄関の外や窓の下から式に与っていたそうです。

どんだけ!?と思いますが、約250年7代にわたって祖先たちが行ってきた絵踏みと、それを行わせた為政者の罪を、長崎の信徒たちはかくも長く心に刻み続けたのですね。

復活したきたキリシタンたちがこれほどまでに悔い改めをしたということが、今の土台になっているように思います。しみじみ思うのは・・・悔い改めは祝福の門を開ける鍵なのかもということです。



サン・ヨゼフ堂跡


着きました、サン・ヨゼフ堂跡。石碑は敷地内に建てられていて外からは見られません。

「お告げのマリア修道会 十字修道院」と書かれていますね。マキや同志たちが始めた働きが現在も受け継がれています。

道をはさんだ向かいも修道会の運営している施設があります。水色の壁にマリア像、素敵です。


サン・ヨゼフ堂は高木仙右衛門の家


本原郷辻のサン・ヨゼフ堂は高木仙右衛門の持ち家でした。1867年7月15日の夜明け前、激しい雨足の中で荒々しく戸とを叩く音と騒がしさに、仙右衛門は目を覚ましました。当時仙右衛門は45歳の男やもめで、家中にいるのは次男 敬三郎(16歳)と三男 仙太郎(6歳)だけ。長男 源太郎(19歳)は神父になるため大浦天主堂に隠れて勉強していました。

仙右衛門が戸を開けると、松明を持った捕吏が家に入り込んできて、仙右衛門と敬三郎を召し捕らえました。2人は土砂降りの雨の中引き立てられて桜町牢へ。こうして浦上四番崩れと呼ばれる最後のキリシタン検挙事件が始まったのです(4つの秘密礼拝堂のどこが一番先だったとかの順番は詳しくわかっていませんが、ほぼ一斉に行われただろうと考えられています)。

現場に立っても、その日の激しさよりは穏やかな気分の方が勝って感じられます。恩讐を超えて、はるかに超えて、いいものを受け継いだ今がある、それでいいですよね。



サン・ヨゼフ堂跡

今は修道院

施設

聖フランシスコ病院


帰りは下り坂なので歩けそうだと思い、バスに乗らずにテクテク。少々時間はかかりましたが、ちょこっと買い物したりして、町の様子が感じながら帰りました。

キリスト教系の所が多いから、うれしくなるポイントが随所にありますね。ここにも、ここにも主に祈っている人がいるんだという。それがキリシタン時代からなんだから、どれだけ積まれているでしょう。そういうのを財産として換算するなら、大金持ちの土地かもしれませんね。「天に宝を積みなさい」(by聖書)の宝ですけど (o^^o)





人間 この未知なるもの


この未知なるものと、アレキシス・カレルが言ったように、人は様々な面を持ち、その全てを何かで括ってしまうことができない存在です。中でも、人が自分の命よりも信仰を貴く思うという事実は、人とは一体どういう存在なんだろうと考えさせられる面の一つです。

殉教は命をかけて信仰の真実を証することですが、それを通して形作られてきた町が長崎と言うことができようかと思います。一度きり一人きりの殉教でもなくて、何度も幾千人もの命でもって証されてきた真実。そうすることによって長崎は溶鉱炉に入れられた鉄のように練られたのではないでしょうか。

現代は一応の平和があり、信教の自由が保障されているので、信仰によって命を奪われることはありません。では今長崎はどんなふうに存在しているのだろうと考えながら、今日は町を歩いていました。

そうして見えてきたのは、信徒発見、最後の迫害を経て自由を得た信徒たちが、悔い改め、迫害者の自分への罪を許したばかりか、彼らの罪まで赦してくださいと天に求めたということでした。解放されて喜ぶけれど浮かれるのでなく、主を踏みつけにしたことを悔い改めて、為政者の罪まで代わりに悔い改めて、天の前できれいにしてリスタートさせたのです。

それによって、殉教することから、殉教の精神で「生きる」ことへの転換に成功したのではないでしょうか。「悔い改め」はその重要な転換点だったのだと感じました。

世間を見渡せば、自分は悪くないという主張や歴史修正主義が跋扈していますが、長崎スタイル、キリシタン・スタイルを見習うのも良さそうです。悔い改めは、悪かったと認めることだから一見損をしそうだけれど、実はその反対で、ブーメランのように返ってくるのは祝福だからです。

不条理に対して「怒る」「反発する」「力を蓄えて後でリベンジする」という行動も採れる中で、「(迫害者の罪まで)悔い改める」という選択ができることも、この未知なる存在 人間の、素晴らしい面と言えそうです (。•᎑•。)







                                      NEXT >>