聖マリア堂跡
「どこかで曲がらないといけないはずだけど・・・」と思っていたら、バス停「平の下」脇に案内が出ていて、無事見つけることができました。めっちゃ普通の民家前に石碑と解説板が出ています。
1867(慶応3)年7月15日の早朝、最後の水方を務めていた又一の自宅裏山にあった聖マリア堂に幕府の手入れがあり、朝の礼拝を行っていたロケーニュ神父は裏口から逃げて難を逃れることができましたが、又一の子で伝道士を務めていた友吉は捕らえられ、他の信徒と共に津和野に流配されることになったと書かれています。
津和野と言えば、信徒の中でも特に堅固な信仰の持主たち、「キリシタンの精鋭」が送られた流配地。高木仙右衛門や守山甚三郎らが拷問を受けた場所として知られていますが、ここからも送られて行ったんですね。
現場に立つことで、どんな思いがするのだろうと思っていたのですが、あまりにも普通に民家が建ち並ぶエリアの中にあるので、まずは意外で、次に慄然とさせられます。ギャップがすごくて。荒々しく捕吏が踏み込んできて平和な日常が壊されたことが、段々とわかってくる感じです――。
68人が捕縛された嵐の夜
浦上の信徒68人が捕縛されたのは、1867年7月15日(慶応3年6月14日)。前夜からの豪雨が明けた早朝3時、長崎奉行所の公事方掛役人がこの聖マリア堂に踏み込みました。ロケーニュ神父がキリシタンたちに教理を教え、洗礼を授けるために潜んでいたのですが、神父はその時のことをこう書き記しています。
7月13日の土曜日、私は15日ほど滞在する予定で、長崎から浦上に移りました。プワリエ神父も月曜の夜には聖マリア堂に来て、私を手伝ってくださるはずでした。クゼン神父は同じ頃サンタ・クララ堂に行って、キリシタンたちに宗教のお務めをさせることになっていました。
土曜の夜も、日曜の昼もきわめて平穏に過ぎました。雨にもめげず、たくさんのキリシタンたちが宗教のお務めをするために来ており、近くの家々では深い眠りに入っていました。
月曜の朝3時頃、私の小さな部屋の戸を荒々しく引き開けて、「捕らえに来ました。早く逃げてくだされ!」と、家主の市之助が叫びました。市之助は平(ひら)の三八の子である。
神父の制服の上に、日本の上衣を引っかけて家を出ました。伝道士の達右衛門と二人の青年がついて来ました。私たちが裏口を出たのと、捕手が表から入るのとまったく間一髪のことでした。
この後ロケーニュ神父は森の中に隠れ、追っ手をまいて大浦天主堂に戻りました。この朝の手入れで聖マリア堂は散々に荒らされ、祭具も全て持って行かれました。水方の又一の子で、父に代わって伝道士として働くことになった友吉は捕らえられて打ち叩かれ、半死半生になって放り出されました。
この時ロケーニュ神父と行動を共にしていたのが、一昨日偶然お墓を見つけた深堀達右衛門。信徒発見以降、将来神父になることを目指す若者たちが大浦天主堂に隠れて勉強に励んでおり、彼らは浦上キリシタンが「旅」に行っている間、海外に避難して勉強を続け、高札撤去後、神父となって働きます。