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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 続・蒼き切支丹回廊 2


外海潜伏キリシタン文化資料館


本日は外海(そとめ)へ。以前から憧れていたのですが、今まで行ける機会がなく。今日は友人が車を出してくれて回れるようになりました☆

本当に感謝なことですね。今日はお天気も良くて写真もバッチリ撮れそうです。

実は今回の旅行の期間は、10年に一度あるかないかの大型の台風が来るという予報が出ていて、旅行に行くことさえ危ぶまれるほどでした。

それがこんな好天に恵まれるだなんて! しかも今日は、そ・と・め♪(「ほかめ」と読む場合もあるみたいですが、今日は「そとめ」で)

長崎市の北部にある西彼杵半島は、半島中央を通る山の稜線で分け、東側を内海(うちめ)、角力灘に面した西側を外海といいます。内海は大村一族が直接支配したのに対し、外海は大村氏の下で在地領主が支配しており、そこにキリスト教の種が蒔かれました。

遠藤周作の『沈黙』前半の舞台となる「トモギ村」は旧外海町をモデルとしています。


外海地区のキリスト教


外海地区の下黒崎にある外海潜伏キリシタン文化資料館が、今日最初の目的地。駐車場に車を停めて信号を渡るまでに、ざっとこの地域の特性とキリスト教史をおさらいしておきましょう。

長崎にポルトガル船が初めて入港した1571年、外海の中部を治めていた領主 神浦(こうのうら)氏のもとへ、フランシスコ・カブラル神父やフィゲレイド神父が訪れ、領主一家と2人の叔父に洗礼を授け、多くの領民がキリシタンとなりました。1586年には神浦にレジデンシア(住院)、1592年には教会が建てられ、シュリオ・ピアニ神父とガスパル佐田松が常駐。外海一帯の信者は4~5千人に上ったということです。


禁教と殉教


しかし秀吉の伴天連追放令を境に、禁教の嵐は徐々に外海にも近づいてきます。1605年、大村喜前(よしあき)が大村領からの宣教師追放を命じ、領内のキリスト教関連施設が破壊されました。

幕府の禁教令発令後は信徒も摘発されるようになり、1629年にアウグスチノ会のカルワリオ神父が平島で、フランシスコ・デ・ヘスス神父が雪浦(ゆきのうら)で捕まり、雲仙で地獄責めにあい、1632年に西坂で火あぶりに処されました。

1633年には出津のフオン信次郎一家、黒崎のディエゴ彦右衛門一家、永田のドミンゴ九兵衛一家、池島のフオン彦右衛門一家などが捕縛され、殉教しています。こうした中、トマス金鍔次兵衛神父が長崎から外海にかけて布教を続け、神出鬼没の活躍で人々に希望を与えましたが、1636年に長崎で捕まり、翌年殉教しました。


潜伏して信仰を維持


大村藩の厳しい取り締まりによって、多くの者が棄教しましたが、大村城下から遠い外海では潜伏キリシタンとして信仰を貫く人々が出てきました。監視の目が行き届かなかったため、庄屋や村役人にもキリシタンが残りました。

また文禄・慶長の役の後、在地豪族の一人である山口氏が大村氏から鍋島氏に鞍替えし、山口氏の支配地が佐賀藩の飛び地 深堀領となりました。佐賀藩ではキリシタン取り締まりが比較的緩く絵踏みも行われなかったため、そこに潜伏キリシタンが存続することになりました。この佐賀藩深堀領に相当するのが樫山、永田、黒崎、出津の一部です。

以上の基本情報を踏まえて資料館へ☆



黒崎

外海潜伏キリシタン文化資料館

外海潜伏キリシタン文化資料館

館内


開館時間なのに鍵が閉まっていたので、看板に書かれた番号に電話すると、「ちょっと待ってて~」と開けてくれましたが・・・

なんと、松川隆治(たかはる)氏ではないですかっ。

こちらの資料館は、外海地区の住民から成る外海文化愛好会により、外海とその周辺地域の潜伏キリシタンの歴史を調査研究した成果を公開するための施設として平成29年3月19日にオープンしたのですが、松川氏は館長さん。外海の潜伏キリシタンを一番よく知る人物と言えるでしょう。

また黒崎地区の潜伏キリシタンの家系に生まれ、幼い頃、母親からオラショを習ったという話を何かで読んだ記憶があります。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素となっている外海の潜伏キリシタン遺跡について、外側からも内側からも詳しく知る人物にお話をうかがえるなんて光栄です。今日は朝からツイています (*'▽')


SNSにはあまりアップしないで(?)


館内に展示されているのは30点ほどのキリシタン関連資料と解説パネル。この後の時間配分を考えると長居はできないんですと伝えると、コンパクトに説明してくださいました。「写真撮ってもいいですか?」の問いには、写真はいいのだけど、あまり詳しい写真はSNSにアップしないで(?)とのこと。ダメじゃないけど、問題起こらない程度にしてということみたいなので、「引き」で全体的にぼんやりと。

だけど眼では「天地始之事」(てんちはじまりのこと)と「バスチャン暦」(ごよみ)を確認しました。外海のキリシタンの信仰的特色を表す2大資料ですね。もう一つ加えるとしたら「こんちりさんのりやく」ですが、これもこちらの資料館で見られます。どれも本物ですよ。しかも伝来した地にあり、現地の人たちによって守られ、その子孫の方から説明を受けられるだなんて。もう夢ですか幻ですか!!(朝から大興奮)


「天地始之事」と「バスチャン暦」


「天地始之事」は、潜伏期から外海に伝わる民話化した聖書物語。「そもそも天帝(デウス)と敬い奉るは、天地の御主人(オンアルジ)人間万物の御親にて、まします也」と、旧約聖書の創世記に当たるところから書き始め、マリアやイエス・キリストの生涯を中心とした新約聖書の内容へと展開しています。

しかし独特な世界観が満載で、そこに混淆した日本的なもの・地域の名称等を追求する研究がなされています。例えば、天地の御主人デウスがアダンとエワ(アダムとエバ)を作ったのはいいとして、パライソを追い出されたエワの子供が下界にある「ごうじゃく」という石を探して住めば不思議な現象が起こる・・・という話になると「???」です。

「バスチャン暦」は、「日繰り」「お帳」とも呼ばれる太陰暦の暦。外海の潜伏キリシタンはこの暦に従って信仰生活を送り、信仰組織を維持していました。松川氏は「この日繰りがあったから、外海の潜伏キリシタンは信仰を守ることができた」と言います。


「こんちりさんのりやく」


「こんちりさんのりやく」の「コンチリサン」とは悔い改めのこと、「りやく」は「略」です。心からの悔い改めをもってコンヒサン(告解)すべしとされたオラショ(祈り)の言葉が「こんちりさんのりやく」には書かれています。

潜伏キリシタンにとっては主を否認する絵踏みは罪ですが、踏まないわけにはいきません。踏みながらも、その後に「コンチリサン」のオラショを唱えて悔い改め、神に許しを請い願ったということですね。寺詣での跡にも同様に行ったようです。

この「こんちりさんのりやく」も外海・五島系の潜伏キリシタン組織には受け継がれ、生月・平戸系には受け継がれていないということです。キリシタン史家の片岡弥吉氏が各地の「カクレ」の村を訪ねると、「こんちりさんのりやく」を持っていた村では信仰が息づいていたが、何らかの理由でその小冊または祈りが失われた村では、信仰が次第に消えていったことが確認されたと書いています。

それが本当なのかどうか、私は生月を訪れたり潜伏キリシタン組織をちゃんと調べたりしたことがないので何とも言えないのですが、一人の信仰者としては「コンチリサン」の大切さはわかります。

許しを請い願うことができるということは、許される可能性を意味していて、許されないと生きていけない罪多き身にとっては、「コンチリサン」のオラショを唱えることが慰めと希望になるに違いありません。


外海・五島には見られるが・・・


さて外海から五島には生活苦で移住していったので、「天地始之事」と「バスチャン暦」、「こんちりさんのりやく」は、外海・五島地方には継承され、信仰的な同一性が見い出されます。一方、生月・平戸地方にはそれらが見られず、同じ「潜伏キリシタン」と言えど、信仰的な違いが生じるわけです。

例えば、「バスチャン暦」が無ければ「バスチャンの予言」も無いということになるので、7代忍んだら司祭(正確にはコンヘソーロ)が来るという話はありません。「天地始之事」によって外海・五島地方に共有された世界観を、生月・平戸地方は持ちませんでした。その分生月・平戸に根付いたものが別にあるのでしょうけれど、違いはあるということです。

それが「復活」と「カクレ」の分かれ道になったり、ここ数年の少々生々しい話としては、世界遺産「登録」と「構成要素から漏れる」という差につながっていたりしないでしょうか。

見事「信徒復活」し、教会に復帰するというハッピーエンドを迎えられなかった所には、そのストーリーが適用されない分、マイナスポイントが与えられるという構図です。うがった見方かもしれませんが、今回の旅で一度考えてみなければと思っています。



納戸神の聖人像

聖骨箱

教皇に謁見

メダイを収納した竹筒

外海のキリスト教遺物


模写したもののパネルなので大丈夫かなと「引き」で撮って、こちら(←)に上げたのは、「聖母マリア十五玄義図」(右)と「大天使ミカエル」(左)。どちらも焼失して、原本はありません。

外海のキリシタン遺物で図像といえば、日本二十六聖人記念館所蔵の「雪のサンタマリア」で、潜伏キリシタン図画を代表する一つとして有名ですが、この2点も現存すれば、それに匹敵するものだったことでしょう。


プチジャン神父が見た「聖母マリア十五玄義図」


しかもこの2点には歴史的に意味深いエピソードがあるんですよね。「聖母マリア十五玄義図」は、1865年9月13日、プチジャン神父が「鞭のミケル」という熱心な信徒の案内で出津を訪れた際に目にしてます。所有者はバスチャン木村重蔵。重蔵の屋敷では時折信徒に「聖母マリア十五玄義図」を見せ、拝ませていたようです。

「聖母マリア十五玄義図」と「大天使ミカエル」は、野中騒動という事件で注目されるのですが、騒動が収まると出津教会の内陣に掲げられ、カトリックに復帰した者もハナレ(カクレ)の人も崇敬をもって眺めていたということです。

その後戦争となり、戦局が厳しくなるにつれ、浦上の信徒がキリシタン遺物を疎開させたのですが、結局終戦間際に焼損。今は焼失前に撮影された写真の一部と模写が残るのみです。それでもプチジャン神父が見、潜伏キリシタンたちが息をひそめて見つめていた図像を、そのコピーであっても見られることはうれしいことかと。


大村藩領と佐賀藩領の色分けマップ


下のサムネイル最後に上げたのは、大村藩領と佐賀藩深堀領の飛び地の色分けマップ。これを作成したのが松川氏の偉業と言っても過言ではないので。この二つの藩の違いによって潜伏キリシタン組織が影響を受けたのではないかということは、田北耕也『昭和時代の潜伏キリシタン』で初めて指摘されました。

しかし藩境が複雑に入り組んでいるため、実証的な調査が進んでいませんでした。そこに風穴を開けたのが松川氏。下黒崎出身であるため、地元にも顔が利き、土地勘もあってスムーズに調査が進んだという面があったようです。

地図を見ると、地域はもちろん家単位まで調査していることがわかります。墓地もどちらの藩領にあるかによって形態に違いが見られます。複雑に入り組んだ藩境ですが、これがはっきりすることにより、潜伏キリシタン組織が存続できたのは佐賀藩深堀領とそれに隣接する大村藩領の一部であることが明確になりました。地道な研究が如何に大切かということですね。



松川館長による説明

枯松神社の古写真

枯松神社祭

藩領の色分けマップ

黒崎教会


では資料館のすぐそばにあるカトリック黒崎教会へ。美しいレンガ造の聖堂です。

1897年にド・ロ神父の指導で敷地が造成され、1899年から建設、1920年に竣工しました。

設計施工は大工の川原忠蔵。忠蔵の家は熱心なカトリック一家で、忠蔵の父 川原粂吉はプチジャン神父と大浦天主堂を作ったといわれます。竣工してから適宜修復されているようですが、貧しい信徒が奉仕と犠牲で一つひとつ積み上げたレンガだと思うと心打たれるものがあります。

ド・ロ神父から建築を学んだ人としては鉄川与助が有名で、よく何かで取り上げられていますが、カトリック信仰を持っていた川原一家の人たちのことをもっと知ってほしいなと思ったり。信仰と建築技術の両方を継承していったという意味でも注目されていいように思います。


聖堂内部


中に入るとかなり広く、ちょっとびっくり。聞けば532㎡もあるのだとか。側廊に大きく幅を持たせた三廊式で、天井はリブ・ヴォールト。奥行きと開放感があります。ステンドグラスと、その光を映す木の床も美しいです。内部は写真撮影不可なので、HP等でご覧ください☆

教会が完成した1920年当時、信者数は約1700人に達していたそうなので、これくらい大きな聖堂でも一度に全員が入るのは無理だったかもしれないですね。またそれだけの信徒の面倒を見るというのは大変なことで、神父を手伝う女性たちが立ちあがり黒崎愛苦会を設立して、病人を見舞い、子どもたちの要理教育を受け持つなどしたのだとか。

周囲は、見渡す限り山と海。傾斜地が多く畑も広く取れなかっただろうから、信徒の生活はさぞ苦しかったでしょう。そんな貧しい村に、こんなヨーロッパのような大きく荘厳な聖堂が建てられているなんて、日本もなかなかのものじゃないかと思ったりして。遠藤周作のエッセイ「切支丹の里」にも出てきます。


建てられているのは上黒崎


さて、黒崎教会や先ほどの資料館の前には国道202号線が通っていて、同じ「黒崎」でも202号線の北側は「上黒崎」、南側は「下黒崎」です。教会と資料館は「上黒崎」にあるのですが、「上黒崎」は大村藩領、「下黒崎」は佐賀藩深堀領でした。だから佐賀藩領である「下黒崎」には潜伏キリシタン組織がしっかり維持され、信徒発見後のカトリック復帰もスムーズでした。

「上黒崎」も「下黒崎」と隣接していたので潜伏キリシタンがいたのですが、大村藩の取り締まりが厳しいため人数は少なく、何かあったときの迫害も厳しかったです。1790年に長崎市浦上で浦上一番崩れが起こった際に、そのあおり受けた「上黒崎」では、信徒が捕縛され、流刑になって死んだりしています。これはにわかに信じがたい過酷さです。

だから資料館を案内してくださった松川氏も「下黒崎」の人で、展示されている遺物も「下黒崎」からの物が多いようでした。そんな違いが、たった道1本隔てられているだけあったというのが残酷に思えます。もちろん浦上四番崩れ以降ともなると、「下黒崎」の人たちも大変な目に遭って、佐賀藩の牢に入れられていますから、互いに辛苦を慰め合ったのだと思いますけど。

今は「上黒崎」に聖堂が建てられ、どちらの住民も平和に暮せていて何よりです。黒崎教会の美しさには、困難な時代を超えて培ってきた何かが影響しているのでしょう。



教会の歴史

カクレの人たちが戻ることを願い建てられた

枯松神社へ


202号線を長崎市内方向へ少し戻って枯松神社へ。山道を歩くための杖は、さっきの松川氏が設置したもののようです。訪れる人の足元まで考えてくれるなんて、さすが。

えーっと、解説板だけが少々残念ですかね。解説の最後に下のように書かれています。

キリシタンをまつった神社は全国的にも珍しく、この他には長崎市内淵神社の桑姫大明神、東京都伊豆大島のおたあね大明神が知られるのみである。


確かに伊豆大島にはオタイネ明神の祠があり、有志によって建てられた十字架とオタイネの碑がありますが、キリシタンを祀ったものではありません。元々オタイネ明神があり、これを伊豆沖の神津島に流されたキリシタン、おたあジュリアのことだと解釈した人がいて、観光業界がそれに乗っかって宣伝したことに端を発した誤謬です。


おたあジュリアと神津島


1970年代頃から、おたあジュリアの墓が神津島にあるという話が出てきました。ジュリアを篤く葬ってくれたということで、カトリック教会がその墓所に巡礼に訪れるようになり、ジュリアは朝鮮から来た女性だったので日韓友好の証として神津島でジュリア祭が行われるまでになりました。夏にしか観光客が来なかった神津島にとっては非常に喜ばしいことで、地元ではジュリアにあやかった観光商品が生まれました。

するとジュリアが神津島に流されて行く途中、船を乗り換えた伊豆大島にもその名に似た「オタイネ」があるという話題が持ち上がりました。そして、それまで全くキリシタン伝説など無かったにも関わらず、そのオタイネ明神はジュリアを祀ったものだと言われ始め、クリスチャンが十字架まで建ててしまったのです。

しかし近年新しい史料が見つかって、ジュリアは数年で神津島を離れ、長崎で貧しい暮らしをしたこと、最後の消息は大坂であることが明らかになりました。

墓に関しては、ジュリアのものではないと以前から指摘されており、まことしやかに言われている習俗の類(線香を十字にして焚く等)は捏造であることが暴露されていたので、新史料発見と論文発表が決定打となって、ジュリアの神津島死亡説は雲散霧消しました。


オタイネ明神はジュリアを祀った「神社」?


ところが、神津島にジュリアの墓があるという話が消えた後も、伊豆大島のオタイネ明神はジュリアだという話は消えずに残ってしまいました。ジュリアは、船を乗り換えるために伊豆大島に滞在しただけで、島に何の有益も残していないので祀られる要素はありません。

日本では非業の死を遂げた人の慰霊のために祀る場合がありますが、それも当てはまりません。しかもオタイネ明神がある場所は、ジュリアが上陸した港と島の反対方向にあって、ジュリアがそこを訪れた可能性もないのです。

今もオタイネ明神(実際にあるのは近年設置された小さな祠だけ)をジュリアを祀った「神社」であると主張して、観光に結び付けようとする動きが一部ではありますが、歴史的な裏付けが皆無であるため盛り上がりを見せていません。

大体、人々が想像する「神社」の形態は有していません。鳥居も社殿も無く、海辺の岩場に、事故など何か痛ましいことがあった場所に建てるような、標石に近い祠があるだけなのです。


「三大キリシタン神社」!?


「キリシタン」を祀ったとは最早考えられておらず、「神社」とも言い難いオタイネ明神を、こちらの解説板で、キリシタンを祀った神社の一つとして挙げているのは問題ではないでしょうか。しかも、オタイネ明神を「おたあね大明神」と、「おたあジュリア」に寄せた音に(意図的に?)変換して記載しています。

「ここを含め全国に三つしかない」「三大キリシタン神社」であると、枯松神社の価値をアピールしようとしているのかもしれません。実際ネットではそう書いている人がいて、カトリック司祭がニュースレターにこれらを「三大キリシタン神社」と書いていることがあります。しかし事実と乖離した名称・概念で広まったとして何になるんでしょうか。

こちらの史跡に価値があることは私も十分承知していますが、それは「ここを含め全国に三つしかない、キリシタンを祀った神社である」からではないと考えます。

それに・・・そもそもここ、「神社」なんですか?


枯松「神社」の根本的な問題点


より根本的な問題点なんですが、枯松神社は本当に「神社」と呼ぶべきでしょうか。枯松神社が「神社」になったのは、大正時代に三重村の祈祷師がジワンを神格化して「サン・ジワン枯松神社」と彫った石の祠を造ってからのことです。

のちに社殿が建てられ、今も新しく建て替えられた社殿がありますが、「神社」となったのは大正時代なので、禁教下ではないですよね。はっきり言うと、潜伏キリシタンがこの「神社」に参ったことは一度もないわけです。「神社」と名付けた祈祷師がキリシタンでもないですし。

だけど、誰かが「枯松神社に潜伏キリシタンが来ていた」と言えば、聞いた人は「潜伏キリシタンが神社参りに見せかけてここに来て、信仰を守っていたんだろう」と想像してしまいます。つまり訪問者に誤解を与え、間違った潜伏キリシタン像を植え付けてしまう恐れがあるということです。



解説板

足元

祈りの岩


入口の解説板を読んでモヤっとしましたが、一歩森に足を踏み入れるとそんな思いはたちまち消えました。

むやみに言葉を発するのも憚れるような、聖なる領域。ホーリーな精気に包まれて、雑念が洗い流されていきます――。

集中しよう。何かを感じ取れないのでは、ここまで来た甲斐がないから。そう思ってしばらく進むと、右手に大岩が現れました。

これが「祈りの岩」ですね。ちゃんと見つけられるのかなと危惧していたのですが、存在感があって、見逃すはずのない感じ。別名は「オラショの岩」。復活節前の「悲しみの節」(=四旬節)の夜に潜伏キリシタンがオラショの練習をしたのだといいます。

大岩の陰に人が何人か入れそうだけど、ここで雨風をしのいだのでしょうか。見ていたら、自然と目をつぶって祈りたくなりました。一言に「潜伏期」と言うけれど、ざっと250年間。世代にして7世代です。それだけの祈りが込められたのが、こんなにも山中の秘かな場所だなんて。人々が潜伏キリシタンに惹かれる理由がこういうところにある気がします。



祈りの岩

祈りの岩

祈りの岩

祈りの岩

更に登ると


深閑とした森の梢からは鳥の鳴き声。登るほどに清められていくような感覚を持ちながら前へ。思っていたより遠いですね。今は森の入口まで車で来ることができるけど、当時は麓の里から登ってきたのでしょう。

整備されたこんな道もなくて、わずかな道しるべを手掛かりに、時には夜陰に紛れて来ることもあったのではないかと。普段本を読んでいるだけの頭でっかちな私には格好のフィールドワークです。観念的になっているところを直すリハビリと言っても過言ではないかも。

登っていたら、「ごめんなさい」――なぜか、そう言いたくなりました。自分の中に下りていくような内省的な気持ちになって。俗世から離れると、神秘的なものに近くなるのかもしれませんね。潜伏キリシタンたちも聖なる森でこんな感覚を持ったのでしょうか。


潜伏キリシタンの墓


祈りの石の周辺や道筋には、潜伏キリシタンの墓とみられる平べったい四角形の石が散在しています。お参りするときには、白い小石を十字架状に並べ、終わるとバラバラにして帰るという風習が近年まであったそうです。その風習をデモンストレートして見せたようなものもありますが、白い小石はともかく、下の石が墓碑であることは間違いないでしょう。

野石の風化した様子が・・・、何とも言えません。こういう素朴な生き方をした人たちだったのかもしれません。慎ましく質素に生きて去っていった、今では名前もわからない人たち。だけれど、ここに確かにいましたよと、石を通して伝わってきます。人は生きて何を残すのだろうと、そんな思いが湧いてきます。



墓碑

白い石

割れた石

墓碑

墓碑

いくつかの石

墓碑とみられる石

潜伏キリシタン墓

枯松神社


着きました、枯松神社。

資料館で、「バスチャンの日繰りがあったから、外海の潜伏キリシタンは信仰を守ることができた」と聞きましたが、バスチャンに日繰りの仕方、つまり教会暦を伝授したのがサン・ジワン様。そのサン・ジワン様の墓とされるのがこちらです。

社殿の中を覗くと、新しめの祠があり、その中の石に墨で上に横書きで「サンジワン」、その下に縦書きで「枯松神社」と書かれています。戦前までは日本で横書きにする際、右から「ンワジンサ」と書いていたので、これは最近の書き方ですね。まあ、正直、祠も社殿も全て平成製に見えます (;´Д`A ```


サン・ジワン様とは


サン・ジワン様は神父で、この神社裏の芋洗川周辺に隠れ住み、地元の老婆オエンが食糧を運んでいたのだそう。しかし大雪でオエンが食糧を運べなくなっている間にサン・ジワン様は他界。それでも生前神父は「私が死んでも地域の安全を守ってやる」と言っていたので、この場所に埋葬したのだという。

伝説の神父サン・ジワン様の加護を信じてか、禁教下で潜伏キリシタンが来て密かに祈る場となり、キリシタンたちの墓も作られるようになりました。しかし信仰というものは、一定の者たちの力で正確に維持・伝達できるものではなく、信仰が変質したのか併存したのかは議論が分かれるところですが、明治になると、漁師たちが豊漁祈願に訪れる場になっていたということです。



祈祷師、何してくれてんの!?


そこへ現れたのが、上述の祈祷師。大正時代に「サン・ジワン枯松神社」と彫った石の祠を造って据え、「神社」化しました。1893年頃には社殿が建てられ、それらがリニューアルされながら今に至っているようです。その祈祷師、何してくれてんの!?って感じです。号泣。

「神社」でない所に潜伏キリシタンは約250年間祈りを重ねてきたんですよ。彼らはこの「神社」を拝んだわけではないですよ。私が号泣するこのような案件に、地元の人たち、潜伏キリシタンの子孫の人たちは、怒ったりしないんでしょうかね?

バスチャンの方が「バスチャン屋敷跡」という名称で史跡登録されているのだから、こちらも「サン・ジワン様の墓」「サン・ジワン遺跡地」「サン・ジワン様と潜伏キリシタン遺跡地」とか、そんな名称にしてはダメなんでしょうか。「枯松」は地名だから残してもいいと思いますが、とりあえず、誤解を招く「神社」は取って。「全国的に珍しいキリシタンを祀った神社」などというアピールもやめましょ。



もしかして大人の事情?


ひとつ考えられることは、「枯松神社」が町指定史跡になったのが平成3年で、合併で長崎市指定の史跡となったのが平成17年。町指定史跡となった時点で「枯松神社」として登録されたので、それが引き継がれた市でも「枯松神社」とするしかなかったという、大人の事情です。

他の地域でもあるんですよね。研究が進んでそうでないことがわかったのに、その名称で史跡登録されているから変えられないという例が。行政の問題かもしれないけど。いや、それでも合理的な範囲で訂正は入れないといけませんよね。

「枯松神社」は今回の世界遺産の構成遺産からもれていますが、潜伏キリシタン関連遺跡としては重要。重要性・希少性はわかるけれど、「枯松神社」のままで登録されてはいけなかっただろう思います。

ぶっちゃけ、名前変えたらどうですか? (←提言)
無理ですよ、これ以上の「枯松神社」推しは。歴史に反した名前のまま、どんなことを伝えていこうというのでしょう。今まで知られていなかった潜伏キリシタンの歴史を伝えていくのに、「枯松神社」として広めていっていいでしょうか。

それにしてもあの祈祷師なーと思います。貴重な歴史を改ざんしてどんな報いを受けたんだろう。せめて更なる改ざんはやめるべきですよね。これから観光客も多く訪れることとなるこの場所を「神社」として刷り込むことは改ざんに匹敵すると思われます。




「枯松神社」

「サンジワン枯松神社」

周囲の祠

周囲

遠藤周作文学館


モヤモヤに一応の区切りをつけて、遠藤周作文学館へ。

『沈黙』の世界をイメージしていたので、もっと暗い感じかと思いきや、南欧風の素敵なロケーションです。宣教師が発ったのはこんな陽が降り注ぐ国だったのでしょうね。

敷地内の思索空間「アンシャンテ」は、遠藤文学に思いを馳せてゆっくり過ごせる無料休憩所。家具とかセンス良くて、SNS映えする写真も撮れます。

角力灘(すもうなだ)を見下ろす景色は、控えめに言って最高です。遠藤が「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と評しただけはありますね。



遠藤周作文学館

窓から

遠藤作品の言葉

景色最高

遠藤周作文学館内


遠藤周作文学館の中は、広い別荘(Casa)のような印象。 玄関ホールは開放感ある吹き抜けで、ステンドグラスが紺青の海を思い出させます。

常設展と企画展があって、何度来ても飽きないように工夫しているようです。私は初めてなので、両方嬉々として見学。

常設展は、やはり『沈黙』に関するものを重点的に展示していて勉強になります。遠藤の『沈黙』取材ノートには、レオン・パジェスの附録から「フェレイラは一度も密告をしたことはない」という言葉を拾って書き留めていますね。『沈黙』の草稿は、原稿用紙の裏に5ミリ角ほどの文字でびっしり書かれています。

『聖書物語』の原稿は、表のマス目に沿って書かれていて、自分で赤を入れています。『男の一生』の参考にしたであろう前野家文書『武功夜話』(全5巻)には多くの書き込み。史料に現れる人物をこれほどまでに研究していたんだと、目を見張りました。作家ってすごいんだな。いや、大変だな。

『深い河』の創作日記はノートになっていて、日付は1990.8.26~1993.5.25。随分と時間をかけて構想を練っていたことがわかります。『深い河』は遠藤が70歳のときに発表した作品で、遠藤が生涯にわたりテーマとした「キリスト教と日本人」の最終章といわれます。興味深い資料が満載で、写真撮影させてほしー!という感じです。


企画展では


この時やっていた企画展では、様々な人との交流が紹介されていて、井上洋治神父からの手紙など、個人的な音信を見ることができました。音信と言っても、プライベートな内容ではなく、『深い河』執筆中に遠藤が質問したことへの答えを、井上神父が書いたものです。修道会、試験官、異端に関するものですね。遠藤の関心がうかがえます。

遠藤の父、母、兄、妻、息子それぞれからの手紙もあって、興味深いを超えて・・・、興味深いです(←語彙不足)。父親はこんな風に接したのか、母親はこう書き送ったのか、妻との関係はこんな感じだったんだ、息子(今はフジテレビの社長ですね)の手紙は可愛いなぁと。

ガラスケース内に妻の順子に贈ったサイン入り本『沈黙』と『侍』があって、「順子おばさん江 小生、もっとも、おばはんを頼りにしております 周作」と書かれていました。夫婦の機微、ここにありですね♪

展示室の壁に著作から抜き出した遠藤の言葉が貼ってあるのですが、その中で下の言葉が心に残りました。さすが周作。これだから好きなんですよね。


人と人とのめぐりあいの奥に、我々をこえた神秘的な意志が働いていることを考えざるをえない。(『お茶をのみながら』より)





遠藤周作文学館

遠藤周作文学館

ステンドグラス

遠藤周作文学館

夕陽が丘そとめ


ランチは道の駅「夕陽が丘そとめ」で。地元の生鮮食品がいろいろ売っていて見ているだけで楽しいです。ド・ロそうめんに惹かれたけど、この日はパンに。こちらにも無料休憩所があって、そこで食べられます。

友人は「どこかお店じゃなくていいの?」と気を遣ってくれましたが、時間節約できるし、地元のものが食べられるし、気に入っちゃいました♪



道の駅そとめ

生鮮食品~


海辺をドライブ


沈黙の碑


ドライブにだけ来ても十分元が取れるような(?)風景の中、もう少し北上すると、沈黙の碑が。うっ、これ見たかった...!

ここまでで、私が周作のファンであることは大体バレていると思いますが、周作ファンにとってはここ聖地ですね。

このロケーションにこの碑という組み合わせを、遠藤は「ベターではなくベストですね」と言ったのです (*^-^*)グフフ

刻まれているのは、「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」という言葉。この言葉は、実は『沈黙』の中にないのだけれど、遠藤が『沈黙』で描こうとしたものが凝縮して言い表わされています。この言葉を、こんなに碧い海を見下ろしながら読めるなんて、私って幸せだなぁ。



沈黙の碑

沈黙の碑と海

碧い海

外海歴史民俗資料館


ここまで来たら、出津文化村はすぐそこ。出津文化村の中に、外海歴史民俗資料館とド・ロ神父記念館、世界遺産に登録された旧出津救助院、同じく世界遺産の出津教会があります(という理解でいいのかな?)

まずは202号線から近い外海歴史民俗資料館へ。内部は写真撮影不可で、1階に先史時代から現代までの外海の暮らし、2階にキリシタン関係が展示されています。

1階は時間の関係でじっくり見なかったけれど、外海の産業は農業・漁業・池島炭鉱(平成13年に閉山)で、その他の諸職はド・ロ神父の指導から発展したようです。ド・ロ神父の、神父の枠を越えた活躍が、物心両面で住民の生活を向上させたことは間違いないですね。


2階のキリシタン関連資料


2階にあるというキリシタン関連資料を楽しみにしていたのですが、潜伏キリシタン時代のものはあまり無く、信徒復活以降の、再布教期のものがほとんどでした。それは仕方がないことですね。潜伏キリシタンの遺物なんて、そうそうあるものではなく、今日最初に行った資料館がすご過ぎたのです。

こちらでの見どころは、竹筒とそこに入っていたマリア観音像とメダイ(メダル)のセット、バスチャンのツバキでしょうか。バスチャン暦もありました。竹筒のセットがもう、実に実にいいんですよね。趣というか、「景色」とでも言おうか、溢れ出す雰囲気が。解説パネルにも力を入れているようで、視聴覚ブースで映像も流れていました。

ただ、数点しかない潜伏キリシタン時代の物が、多くある再布教期の物と一緒に並べてあって、素人目には区別できない展示のされ方になっているのが問題ではないかと感じました。再布教期の物を見て、「へぇー、かくれキリシタンって意外とキレイな十字架やメダイ持ってたんだね~」と早合点して帰ってしまう人がいそうです。


潜伏キリシタンの遺物は破格の希少性


潜伏キリシタン時代の物と再布教期の物とでは、歴史的な背景はもとより、年代、希少性、伝来した経緯など、全ての面で大きな差があります。「価値」が違うと言うと語弊があるかもしれませんが、もしもお金に換算するとしたら潜伏キリシタンの遺物には破格の値段が付くことでしょう。

潜伏キリシタンの遺物は、困難な時代を人々が信仰を受け継いできた証ですから。再布教期に配られた物とはやはり違うんですよね。種類別に並べられているところを、時代別に並び変えるだけでも、随分とわかりやすくなると思います。

解説パネルは新しいけれど、たぶん個々の展示物に付されているキャプション(説明文)は結構前から変わってないんじゃないですかね?(違うかな) 世界遺産登録で訪問者も増えると思うので、どうか予算を組んで最新の研究成果を踏まえたものにリニューアルしていただけないでしょうか。そんな感想を持ちました<(_ _)>



世界遺産

ヴォスロールを歩く

旧出津救助院の屋根

ド・ロ神父像

ド・ロ神父記念館


ヴォスロールという、ド・ロ神父の故郷の名を冠した一帯を散策しながら、ド・ロ神父記念館へ。

なんだか老後に住みたくなるような穏やかで清らかな村ですね。風までいい香りがします☆

記念館入口にはド・ロ神父像と綿花。ド・ロ神父は綿花も栽培して糸を撚り、織機で木綿を作って服やシーツまで製造してましたもんね・・・って、書いててスゴイな@@

記念館の建物は、元々イワシ網工場だったもの。素朴で堅牢な造りです。作業に広いスペースが必要だったからこのように造られたんでしょうけれど、後では保育所となったというので、子どもたちが走り回るにもぴったりだったのかと。

ド・ロ神父の記念館だから、神父が生前使っていた品(聖書とか食器とか)が並べられているかと思ったのですが、意外とそういう物は少ないですね。ド・ロ版画も一点ほどで、それも意外~。実用的な物が多そうです。見ていきましょうか。



綿花

ド・ロ神父像

元イワシ網工場

ド・ロ壁

地下室

解説

展示室

展示室

26聖人の聖遺物!


うぬ!いきなり26聖人の聖遺物がありました。え、こんなに普通にあっていいものなのでしょうか。パウロ三木ディエゴ喜斎ヨハネ五島の遺骨だそうです。

ド・ロ神父の祭具の並びに、さらっと置いてあってびっくりです。ここ日本二十六聖人記念館じゃないですよね?

日本の宗教事情を調べるために集めたと思しき資料もありますね。ハルモニウムの音の柔らかさよ。触れても弾いてもOKなのがうれしいです。フランスのオルガン製造会社が1900年頃作ったもので、ド・ロ神父はこれを保育所のために取り寄せたのだとか。今も演奏可能というのも感動モノ。神父は、人に最高のものをあげたいと考えていたのでしょう。


ド・ロ神父と外海


ここでド・ロ神父のご紹介を。遅すぎるくらいですね (^▽^;)
神父が生まれたのは、1840年。フランス北部ノルマンディ地方の村で、貴族の次男として誕生しました。オルレアン神学校、パリ大学を経てパリ外国宣教会(MEP)に入りましたが、病気で一旦退会。1867年に再び入会するまでに、印刷や医学、建築などを学びました。これらが全てが後で大いに生かされるとは、その時予想していたかどうか。

MEPに再入会すると、信徒発見後一時帰国したプチジャン神父が、教理書などの印刷をする技術者を求めていました。ド・ロ神父は石版印刷(リトグラフ)の技術を習得して、1868年、28歳で来日。だけどこの時日本は浦上四番崩れの最中で、キリシタンの行く末は不透明でした。ド・ロ神父は最初に長崎、次いで横浜で働いて、1873年高札が撤去されてからは長崎に戻って祈祷書などを出版しました。

そして1879年、39歳で外海に赴任。しかし来てみたその地は、荒れる海と急斜面の田畑で、人々の暮らしはあまりにも貧しく悲惨でした。そこでド・ロ神父は宣教するだけでなく、人々が自立して生活できるよう、教育・医療・労働環境などの整備に乗り出します。



祭具など

ド・ロ神父の祭具

食器など

宗教関連資料

四代届

ド・ロ神父のミサ経典

ハルモニウム

ハルモニウム解説

出津のプラケット!!


なんとー、ここにあったんですね、出津のプラケットって!!

ド・ロ神父の話を中断して申し訳ないけど、出津の潜伏キリシタンに伝来したプラケット(銅牌)だけは素通りすることができなくて。

描かれているのは「無原罪の聖母」。長崎県指定有形文化財なので、長崎市の博物館に所蔵されているのだと思っていました。現地にあるんですね~。良きこと哉。復活してきた信徒を大切にした神父さんの記念館にあることも。

展示品に中にド・ロ版画(筆彩木版画「煉獄の霊魂の救い」、長崎県指定有形文化財)、ド・ロ神父が故国に宛てた最後の手紙、サルモン神父の手紙などがありました。ひときわ目を引く、刺繍が施された白い祭服は、ド・ロ神父の母と妹が手縫いで仕上げて神父に持たせたもの。展示品の中でそれだけが唯一豪華なのですが、ド・ロ神父の出自がこういうものだったことを示しています。


ド・ロ神父の冒険、始まる


ド・ロ神父を迎えた外海の信徒たちの喜びは想像にあまりあります。約250年にわたり先祖たちが待ち焦がれたパーテル(司祭)様のミサに与ることができるなんて夢のようだったでしょう。しかも神父は39歳という頼もしい年齢で、端正な容姿と気品を備えていました。僻地の信徒たちには眩しく誇らしい存在だったのではないでしょうか。

MEPの年報によると、この頃の外海地方のカクレキリシタン(キリスト教会に戻らず独自の宗教習俗を守る人びと)は5000人余りで、カトリックに復帰した者は2913人で少数派でした。潜伏キリシタンが、カクレ(ハナレ)とカトリックに分かれていくタイミングにド・ロ神父は赴任することとなったのです。カクレの人たちの復帰を促したい気持ちも強かったでしょう。

ド・ロ神父は赴任早々、仮聖堂を拠点に修道院と伝道府養成所を設置。次いで1892年に出津教会、1893年に大野教会を完成させ、1897年に黒崎教会の敷地造成に着手しました。それと同時進行で、1883年に授産施設「出津救助院」を設置。次いで保育所、青年教育所(学校)、診療所を設けて始動させました。前人未踏の多岐にわたる活動ぶりには、「冒険」という言葉がふさわしい気がします。



出津のプラケット

ド・ロ版画

ド・ロ神父の手紙

サルモン神父の手紙

白い祭服

使っていた聖書

展示室

当時の最新医療


度肝を抜かれて、少々引いてしまったのが、こちらの人体模型。引くだなんて申し訳ないけど、色まで付いててあまりにリアルでドキッとしてしまいました。

これは妊婦さんの骨盤模型ですね。お腹周りの臓器のほか、血管も動脈・静脈・毛細血管まで忠実再現。赤ちゃんの頭も見えています。

新生児の死亡率が高いことに心を痛めたド・ロ神父は、フランスから実物大の模型を取り寄せて勉強。お産まで手掛けました。・・・脱帽です。そこまでやる神父さん、どこにいる!?


ド・ロ神父と医療


ド・ロ神父は1865年に神父になった後、フランスで福祉担当となり、実際に病院で働きながら医学や薬学の知識を学んでいました。その経験が生かされて、1874年、「旅」から帰還した浦上キリシタンを赤痢が襲ったとき、ド・ロ神父が中心になって医療活動を行ったということがありました。

外海に赴任してからも、早い段階から診察を行っており、1883年のカルテが残されています。きちんと診療記録まで残しているってところが、神父の姿勢を表しています。アバウトにやっててもどこからも譴責受けませんもんね。上からの監視の目がなくても、やるべきことを粛々と行っていたところも、尊敬できるポイントかもしれません。


診療所と薬局も開いた


本格的な診療を行うのは、腸チフスが蔓延した1885年からで、出津救助院に診療所と薬局を開き、自分で調剤した薬を配布していました。日計簿を見ると、貧しい人には無料で薬を渡していたみたいです。それは有り難かったことでしょうね。肉の命があってこその、霊の命(信仰)ですから。

展示品の中には、使っていた薬箱や注射器もあります。ちょっと痛そうですけど。神父がフランスから持ってきたという牧畜用ラッパ(短い笛みたいなやつ)は、村で伝染病の患者が出た時に合図するのに使ったのだそう。神父の献身的な働きに感動を覚えて、手伝いに参加する青年たちも増え、医療・看護体制が整えられていきました。



注射器なども

糸巻機

木綿の糸

服も作った

そろばん

道具類

世界遺産 旧出津救助院


それでは次は、世界遺産の旧出津救助院へ。一見、激シブのシンプルモダン家屋なんですが、屋根瓦に十字架なんて付いてるとキリシタン時代みたいでいいなぁと♪

正面にあるのが旧出津修道院、その左手にあるのがマカロニ工場、中庭の右手にあった薬局の建物はないけれど、中心的建物である授産場は修復されていて見学できます。

さてこの辺りの敷地は元々、代官・庄屋屋敷だった所。明治初期にキリシタンが拷問された場所でした。その土地を1883年に私費で買って授産施設などを建てていったわけですが、ド・ロ神父の脳裏にリベンジの思いがなかったとは考えられません。かつてキリシタンが虐待された場所を敢えて手に入れて、神様の栄光を表す場にしようとしたのでしょう。


ド・ロ神父の相続財産


ところでド・ロ神父が様々な建設事業・医療奉仕等に使ったお金のことなんですが、よく本には「裕福な家に育った神父は、来日時に相続財産として24万フランの莫大な現金をもらい、地元の福祉事業などに惜しまず使った。」と書いてあります。細かい事情を省いてそのように書いているのだと思いますが、正確には、ド・ロ神父は相続財産をもらってから来日したのではありません。

来日どころか、外海に赴任した1879(明治12)年時点でも、ド・ロ神父のお父さんは存命で、財産を相続してはいません。父ノルベール・ド・ロッツがこの世を去るのはその翌年、1880(明治13)年のことで、母アントワネットと三人の子供に均分され、ド・ロ神父の相続分は香港のMEP東洋本部に預託され、もたらされたのです。


一度もフランスに帰らずに


来日する際に幾ばくかのお金をもらうことがあり、その後も家族から支援をもらうことはあったでしょうけれど、莫大な財産相続(24万フラン)というのはこれ一回です。だから「たくさんお金を持って外海に来た、そして惜しまず使った」というよりは、「貧しい外海に赴任した。やるべきことが多い。人を助けたい。そこに財産がもたらされた」というのが、順番的には正しいのです。

それから、父の死に目に会えなかったという悲痛さを胸に、もらったお金をここにいる人たちのために使うことで、フランスにいる家族の安寧を願っていたというのもあるのかもしれません。何より、そのように使うようにと神様が与えてくださったのだと感じ取ったのではないでしょうか。

ド・ロ神父は来日してから一度も故郷に帰ることなく、35年間働き続け日本の土になられました。



解説板

元・庄屋屋敷

屋根瓦に十字架

建物

解説板

ド・ロ神父の本

授産場1階

建物内

授産場2階


メインとなる授産場の1階で、ド・ロ神父のアイデアで始まった事業(そうめん、マカロニ、パン、製茶、搾油、養蚕、織物等)の説明を聞き、2階へ。

ここは一種の修道院で、祈りの生活の中で女性が自立を目指す場でした。何かを生産して稼ぐことや、教育によって力を養うことなしには、人は自由に生きていけません。だからそれらを総合的に身に付けられる施設を作ったんですね。

明治初期の女性の社会的立場は無きに等しいものでした。女性の人権や自由、自立を考えてくれる人など日本中見渡してもほとんどいない中で、こんな片田舎、いえド田舎でそれを大切にした構想が考えられ、構想だけにとどまらず、実行に移されていたとは。女性史の1ページに記すべきことではないかと思います。


シスターによるオルガン演奏


ここを訪れた人は皆聴かせてもらうようですが、私も聴かせていただきました、ド・ロ神父がフランスから取り寄せたオルガンの演奏を。シスターが当時の最先端だった機能を使って音を出し、解説してくれるので理解が深まります。フゥカフゥカと、全ての音にfが付いたような柔らかく温かい音色。初めて聴くのに懐かしい気持ちになります。

弾きながら振り返るシスターの笑顔爆弾が炸裂。天に委ねたから憂いがないという境地はこれか。建物や遺物、解説パネルを見て感動するけれど、人から伝わってくること、そうやって教えられることには敵わない気がします。このように人の温かみと共に伝達され共有されたものが、この地域の歴史となって息づいているんだなと感じました。



オルガン


時計

天井

オルガン実演

聖像

聖像

出津教会


出津文化村ラストは出津教会。こちらも世界遺産の構成遺産です。

長崎にある世界遺産登録された教会堂は、予約が必要となっています。

それで予約時間に合わせて動いているんですけど、ちょうど良く回れているおかげで、ちょうどよく到着。予約していくとガイドの方が来てくれて説明してくれます。説明聞かないと見どころを見逃したり、何だかよくわからないまま帰ってしまったりする(私の場合;;)ので、できるだけ聞かせてもらうようにしています。というわけで、こんにちは~(∩´∀`)∩


ガイドさんの説明&質疑応答


ガイドさんは地元の方で、この教会の信徒。潜伏キリシタンの歴史から復活、ド・ロ神父の赴任、出津教会をはじめ外海の教会堂建設にも詳しくて、メモも見ずによどみなく説明してくれました。今教会に信徒が600人ほどで、この地域の55%がカトリックなのだそう。ド・ロ神父が来た時点では少数派だったのだから逆転しんたんですね。

1865年の信徒発見が3月17日で、その知らせを聞いたキリシタンがプチジャン神父に出津への訪問を勧め、それが実現するのが9月13日のこと。「信徒発見の約半年後、9月にプチジャン神父はこちらの重蔵屋敷に着いて・・・」と言う時に、ガイドさんがふっと左手で一つの方向を指差したので、おおおっ!と。

もしかして重蔵屋敷がどこだったか知ってるの~!? そこってマリア十五玄義図があった家で、潜伏キリシタンがその絵を見に行ってた家ですよね?

その質問をしたくてしたくて、話が終わるまで我慢していたのですが、質疑応答の時間になったので、「ハイハイハイハイ!」と手を挙げて質問。すると、何でもないことのように、「そこの、出たらすぐ見える高台になった所の家、今は教会の施設になってるけど」と。あぁ、聞いてよかった、来て良かった、生まれて良かった、神様ハレルヤ。


プチジャン神父が来た重蔵屋敷


お礼を言って教会を出て、重蔵屋敷を発見。老人ホームなど修道会の福祉施設になっています。こんな近くにあったとは。あそこにプチジャン神父が来て、潜伏キリシタン30人ほどが迎え、先祖代々信じてきた証としてマリア十五玄義図が広げられた――。それも信徒発見並みに劇的な瞬間だったでしょうね。

それがあの丘の上でだったなんて・・・。まじかー!(←心の中心で叫ぶ)


外海の苦難、深堀異宗徒移送事件


信徒発見とプチジャン神父の外海来訪が1865年で、1867年に浦上四番崩れが起こると、かつてはキリシタンに寛容だった佐賀藩でも厳しく取り締まるようになります。1868年のロケーニュ神父の手紙には「寺参りを拒んだ15人がむち打ち刑となり、90人が高島炭鉱に送られ、9人が投獄・拷問にかけられた」とありますが、重蔵も高島炭鉱に送りとなりました。

明治政府は、浦上信徒を全国20の藩に流刑としましたが、佐賀藩でも深堀領の信徒67人を逮捕して佐賀藩評定所(牢屋)に入れました。外海からは下黒崎の6人と出津の8人が牢屋に送られ、1年後に解放されるまでに下黒崎の中心的信徒 辻三次郎が牢死しました。これを深堀異宗徒移送事件(あるいは伊万里県事件)と言います。

この事件は横浜の英字新聞などで報じられたため、この後出発した岩倉遣外使使節団は行く先々でキリシタン迫害による抗議を受けることとなり、高札が撤去される要因の一つとなったともいわれます。浦上キリシタンも大変でしたが、外海の復活してきたキリシタンも最後の苦難を経験していたんですね。



出津教会

手を広げるキリスト像

重蔵屋敷跡

重蔵屋敷跡

小さな橋


次なる目的地に行く途中、小さな橋を通りました。この周辺の小さな橋がある所で、「ひろがり」と呼ばれる所が、バスチャンと妻が最後に目くばせをし合った場所だと松川氏から聞いたので、ここだったり?と思いパチリ。違う可能性高いですけど (^_^;)

今回は初外海なので、これだけ回れて満足なんですけど、いつかまた来ることができるなら、「ひろがり」や重蔵屋敷跡をどこか正確に調べて踏破したいです。下黒崎には辻三次郎宅跡が残されているというし、旧出津救助院の1階やド・ロ神父記念館も少々駆け足で見てしまったので・・・、とか言ってたらキリ無いですけどね。

樫山や赤岳(潜伏キリシタンの巡礼地)は次回必ずって感じですね。その前に横瀬浦も行きたいし、千々石ミゲルの墓も行ってない涙・・・と思っていたらやっぱりキリ無し。結論⇒長崎恐るべし。



ド・ロ神父の墓


そうこうするうちに野道墓地に着きました。ド・ロ神父が1889年から造成を始め、1898年に完成させた共同墓地で、ド・ロ神父自身も眠っています。

駐車場から近い、こちらの新しいド・ロ神父墓所は仏教とキリスト教が混ざっている感じに見えますが、まさかですよね?

もう少し上ると、最初に作られたド・ロ神父墓所があって、そちらの方が趣はあります。でも足の悪い人には下の平地にある方が有り難いのでしょうね。ミサなどの行事を行うにも、広い方がいいですし。

新旧の墓を訪れましたが、両方とも「ここにド・ロ神父がいる」とは感じませんでした。当然ですよね、天に迎えられて、今は向こうから地上を見下ろしているのでしょうから。



ド・ロ神父墓所

古いド・ロ神父墓所

古いド・ロ神父墓所

ド・ロ壁


墓地の階段も、ド・ロ神父が信徒たちと一緒に寝泊まりしながら作っていった遺産。斜面の土留めや仕切りはド・ロ壁、階段はド・ロ壁の応用で作られているようです。

ゴツゴツした風合いが素朴で力強く、村の風景にマッチしています。板石だから比較的平らに積みやすいかもしれませんが、それでも足の着地面が水平になるように作っていくのはとても苦労が多かったことでしょう。

作業した手を踏んで行ってしまうような気がして、ちょっと胸が痛みますが、作ってくれたのだから登らせてもらおうとヨイセコラセ。長崎の人って足腰強くなるはずだわと独り言(ひとりご)ちます。


外海の景観をつくるド・ロ壁


このような板状の石は外海、特に出津地区ではよくあるものなので、昔から建築資材として用いられてきたそうです。つなぎにアマカワを使ってくっ付けるというのが伝統的な工法だったのですが、この脆弱性を克服するのにド・ロ神父が考案したのは、石灰に砂を混ぜ、赤土を溶かした水で練ったもの。

これをアマカワの替わりにつなぎに使うと、大変丈夫になり剥がれなくなったのだとか。当初は「アマカワ無しに~?」と懐疑的だった職人たちも認めるようになり、やがてド・ロ壁の名で浸透したのだとか。神父が世を去った今でもド・ロ壁工法は使われています。

外海の美しい石積みの景観をつくったのも、ド・ロ神父だったんですね☆



野道共同墓地


墓石のある所まで来ました。墓石はキリシタン時代の伏せ墓の形を踏襲し、薄い板石を重ねて作られています。

最初の頃の墓碑は経済的な理由で碑銘がないけれど、新しいものには碑銘が刻まれていたり、十字架が建てられていたりします。

とはいえ、素朴ですね。素人の手で名前だけ刻んだものがいくつか。名前さえ無い物が大半です。この世に立派な墓を残していくという価値観、死んでからも名声が下がらないようにしようという虚栄心が、一切ない事がうかがえます。

登ってみてわかりましたが、とても眺めがいいですね。平和な村と、出津教会のある方角が一望できます。向こうからもこちらの山を見れば、亡き人を思うことができるのでしょう。



墓碑

墓碑

墓碑

眺め

墓地


墓地は斜面に沿って 9段の石垣を組み作られています。ド・ロ神父は上の2段を子供用としたのだとか。幼くして天に行った命が天に近い所で安らえるように願ったのでしょうか。

さすがに9段全部は見て回る時間がなくてある程度だけ見ただけですけど、ド・ロ神父の思いは感じました。

誕生(分娩を手掛けるって...)から死まで、全てのときを守ってあげたいという思い。そして地にある間に主を知り、信じて生きて、ここから必ず天国に行けるようにという思いを。任された信徒をそこまで思いやるのが真の司牧なのかもしれないですね。なかなか普通の人にはできないけれど。



墓碑

墓碑

墓碑

小さな橋


バスチャン屋敷跡へ♪


バスチャン屋敷跡へ


それでは次はバスチャン屋敷跡へ。入口に着くと、枯松神社とちょっと似た雰囲気。でも歩き始めると、また違った感じがしてきました。

アップダウンは少ないけれど、相当奥まで行きますね。道は整備されていますが、見上げると緑と小さく見える空。高い樹々の梢が、深い森に来ていることを教えてくれます。

友人の話によると、バスチャンは森のいろんな所に住んで捕まらないようにしていたのだとか。じゃあ、今通っているこの辺りでも暮らしていたことがあるかもしれないですね。山全体がバスチャン遺跡地と言えそうです。



解説板

森の中


石組

バスチャン屋敷跡


着きました、バスチャン屋敷跡。

約250年もの間、潜伏キリシタンの心の支えになっていたのはバスチャンの予言です。

ここはバスチャンの隠れ住んだ所の一つですが、バスチャンの存在を感じさせる重要な場所。来たかったです~(≧▽≦)


バスチャンって?


「バスチャン」の名は、洗礼名が「セバスチャン」だったことから来ていると考えられ、出自は不明ながら、一説には長崎の野母半島の出身で寺の下男だったといいます。サン・ジワンこと、ジワン神父に出会って伝道士となり、一緒に外海一帯で布教していましたが、ジワン神父が去ることとなったので、バスチャンはキリスト教の暦を神父から習ったのだとか。それが今日に伝わるバスチャン暦(「日繰り」「お帳」とも)です。

バスチャンは外海の山にに隠れているときに、炊事の煙で見つかり、長崎の桜町牢で3年余り拷問を受けて殉教したということです。そして有名なバスチャンの予言を残しました。曰く――


一、皆を7代までわが子とする
二、その後はコンヘソーロ(告解を聴いて罪を許してくれる聴罪神父)が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告解)ができるようになる
三、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる
四、道で異教徒とすれ違うときには相手が道を譲るようになる



という内容です。これを信じて待っていたところ、およそ7代たった250年後に黒船が来航して開国され、長崎の居留地に天主堂が建てられ、神父が来て信徒発見に至ったことは、まことに不思議なことで、神様を感じないではいられません。潜伏キリシタンたち、神父たちにとってはもっとそうだったでしょう。


世界遺産登録・・・


・・・ということを鑑みるとき、バスチャンに関するどこかか何かを、世界遺産の構成遺産の一つとして加えることはできなかったのかなと思います。バスチャンの予言がなければ、「潜伏⇒信徒発見」というストーリーを描けないのではないでしょうか。

構成遺産になるだけの要件を満たしていなかったに相違ありませんが、それでも何か、バスチャンが抜けていると、パズルのピースが欠けた絵のように感じてしまいます。



周辺

バスチャン屋敷跡へ

バスチャン屋敷跡

バスチャン屋敷跡

バスチャン屋敷跡の内部


バスチャン屋敷跡の建物は、1983年に最初の建物が建てられて、1992年に建て直されて現在のようになっているもので、バスチャンの時代のものではありません。

いわば「イメージ」ですね。だけど「イメージ」にしても、こんなにしっかりした建物じゃ、すぐに見つかってしまうだろうから、「イメージ」になるかどうか・・・?

石碑か何かがいいように思いますけどね。「こんなんだったんだー!」と誤解を招くよりは。

中を覗くと真っ暗でしたが、友人がスマホで照らしてくれて撮影したら、こんな感じ。中央に木の十字架と献金函。脇にある小机と瓶はバスチャンが暮らしていた様子を再現しようとしたんでしょう。

ここに置かれている解説シートには、「平成17年3月16日」に史跡指定されたと書かれていますが、入口の解説板には「平成18年3月16日」と書かれていましたね。細かいですけど(←ホントにねー)、どちらが正しいんだろう。いずれにせよ3月16日は確かっぽいですね☆



建物内

解説シート

深い森

高い樹々

世界遺産 大野教会


山の精気を十分に吸って、次なる目的地の大野教会へ。こちらも世界遺産で、案内の予約をしていたので、これまで時間と相談しながら回っていたのです。

ここに時間通り来られてひと安心というか、いいペースで支障なく回れているなと感謝 (^^♪

民家のような外観ですが、山間の風景とマッチして、何ともいい感じ。住めるものなら住みたいくらいですね。ここまでの坂道がえげつなかったので、すぐ音を上げそうですけど・・・気持ちは!

案内のために地元住民の方が来てくれて、説明しながら海を指差し、「あそこに見えるのが平戸島です」と。おお、見えるんですね。外海はド・ロ神父が来て生活が安定して人口が増え始めると、荒れ地の開墾だけでは足りなくなって、開拓移住をしていくようになりました。

1886年に黒島教会のラゲ神父が3家族を送り込んだ平戸市の田平(たびら)に、外海からも4家族が移り住み、その後も約70人が移住。同様に、平戸島の紐差(ひもさし)にもド・ロ神父が土地を確保し信徒を送りました。だから、海を渡った所に兄弟姉妹がいると思って眺めたりしたんじゃないでしょうかね。



大野教会

解説板

大野教会

平戸島が見える?

大野教会


床が傷んでいるらしく、大野教会の内部には入れませんでしたが、扉の窓から中を見ることはできました。

建物内部は柱などがない、一室の空間で、天井は板張り。

外観はヨーロッパの田舎の農家のような感じですが、中は昔の小学校みたい(個人の感想です)。

玄関の前に石の壁(この写真で一番手前に見える壁)があって、玄関に直接雨風が吹き付けるのを防いでいます。一室だから、ドアを開けたら部屋全体に雨風が入ってしまうから、こういう工夫を凝らしたんでしょうか。窓は窓枠の下の部分が外側に向かって斜めになっていて、雨が自然に外に排出されるようになっています。これはヴォーリズの建築の特徴なんですが、明治の初めに既にド・ロ神父がやっていたんですね@@

こちらの建築で、今まで見てきたのと明らかに違うのが、使われている石。色味のある石で、板状とも限らない形をしています。ド・ロ神父が作ったからこれもド・ロ壁なんでしょうけれど、ド・ロ壁は少し地区や用途が違うだけでも、異なる素材を用いるという臨機応変でバリエーションに富んだものだったんだと知りました。

近くで見ても、遠くから見ても、やっぱりいいなと思っちゃう。さすが世界遺産。後世に残すべき人類の宝です。




ド・ロ壁

大野教会

軒裏

マリア像


伝承ですが、大野の潜伏キリシタンには二つの流れがあるということです。

一つの流れは、平戸藩での迫害を逃れ、ジェロニモ籠手田安一が一党600人を率いて長崎に渡り、その一部が大野に来て定着したというもの。

もう一つは、関ヶ原の戦いで敗れて斬首となった小西行長の家来の一部が大野に来たというものです。

どちらも筋金入りのキリシタン系列ですね。籠手田氏と言えば、平戸領でも生月と度島。今回訪れようとしている所なので、ここからつながりを感じていくのが正解なのかな。今では証明しようのない失われた記憶と記録を、歴史の中から見出す作業をしていきたいと思います。少しでも何かを掴みたいです。導き給え、主よ。

うん、ここは何かを見るだけでなく、自分と対話するために来てみてもいい場所のような気がする。






大野教会

大平作業所跡


本日のラストは大平(おおだいら)作業所跡。わー、ジブリ映画の世界みたい。

ここではド・ロ神父とその仲間たちが、パンやマカロニ、そうめんの材料となる麦類やお茶を栽培しました。当時の日本は材料から生産しないとダメだったんですね。

出津などは昔から田畑になっていたため、新たに開墾する必要があり、原野であったこの地を購入して、木を切り、草を刈り、土地を耕して・・・、とにかくあらゆることをしたのでしょう。

見ると、こちらではド・ロ壁ではなくて赤レンガで建物が造られています。大野教会から2キロほど離れているので農機具や牛などを現地に保管する必要があり、左官職人を雇って作業所を建てたということです。今はすっかり廃墟ですね。崩れかかった建物が、ちょっとだけロマンチックな感じもしますが、放っておいたら、元の原野に戻ってしまうことが目に見えます。



大平作業所跡

大平作業所跡

建物

開墾した

大平


それにしても大平の大地の美しいこと。眺め最高です。

たくさん働いて疲れても、腰を伸ばしてこの景色を見たら疲れが吹き飛ぶ気がしたでしょう。

知れば知るほどド・ロ神父ってすごい。

今日ずっと通ってきた国道202号線も、元々は浦上からの県道で、県道が大改修されることが決まると、ド・ロ神父はスコップやハンバーなどの工事道具を自ら設計して鍛冶職人に作らせ、それを工事で使うように供出して工事の効率化に寄与したのだとか。

左手に見えていた出津の海岸ですが、荒波が打ち寄せるため安全に船が泊められなかったのをド・ロ神父が見て、砥石崎という所に防波堤を築いて船溜まりを造り、零細漁民を助けたのだそう。枚挙にいとまがないとはこのことですね。


ド・ロ神父って


ド・ロ神父って、どう考えても完全に理系の天才なんですが、天が与えた才能をここまで発揮した人がいるんだろうかと思う八面六臂ぶりで、構想だけでなく実際に体を使ってやっていったのだから、実践の超人だったとも言えるかと思います。

そしてそのすべてを、「一番良いものを人に」という信念で行ったんですね。これが愛なのだと、誰もが感じずにはいられなかったでしょう。人は自分の価値を一番わかってくれるところに属したいもの。自分をここまで大切にしてくれることに対する驚きと感動が、潜伏キリシタンの教会復帰を大きく促したのだろうと、彼らの身になってみるととてもよくわかります。

今なら自分は何ができるだろう。あなたが大切だ、かけがえのない存在だと、相手に伝える・・・何ができるんだろうと、帰りの車中でぐるぐると考えていました。



大平作業所跡

大平作業所跡

廃墟

大平の風景


浦上にお泊まり♪


今回の旅行に先立ち、長崎に宿を取ろうと宿泊予約サイトを見たんですが、なぜかピンと来るものがありませんでした。それで、ふと「泊めてくれるかも」と思って、長崎在住の友人に連絡と取ったのですが、泊めてくれるという上に、場所を聞いたら「浦上の方」と。それは良いなと、更に詳しく住所を聞いたら「本原」(もとはら)だと言うではありませんかっ!

本原郷と言えば、浦上キリシタンの中でも特に堅固な信仰を持ち、最も過酷な困難を乗り超えた人たちの住んでいた所。長崎市内では今回絶対に行こうと考えていた所なので、即「お願いします!!!」

めでたく泊めてもらえることになりました。そうして今夜も(昨日から泊めてもらっている)、一番行きたかった所にお泊まりです。すごいな、ここ浦上キリシタンの本拠地ですよ。約250年を耐え忍んで信徒復活して、浦上キリシタン流配事件という最後の迫害までも勝利した人たちが実際に踏んでいた地に、今自分がいるなんて。

泣きたくなるような感動と共に、キレイな布団にくるまって寝る幸せ。自分では到底コーディネートできないところまで、神様がコーディネーター役の天使を遣わして最善となるようにしてくれているように感じます。

明日もいい日になりますように☆彡




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