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旅行記 > 続・蒼き切支丹回廊1 スマホ版は⇒
コチラ
一路、九州へ
今年の秋は長崎へ!と心に決めていました。だけど飛行機のチケットを取るのが遅れて、長崎行きの便が夕方まで満席に。
そこで博多に飛んで、そこから長距離バスで長崎に向かうことにしました。これならお昼には長崎に到着できるということで。
物事はちゃっちゃと決めて動かないとダメですね。行ける道が拓けて感謝ですが~ (^▽^)

天神のバスターミナル |

博多港を横目に長崎へ |

暑くてサイダー |

嬉野温泉を通過 |
西坂公園へ向かう道
頭が少しぼーっとしていてミス連発しましたが、何とか長崎に到着。何だろうな、このボケ具合;;
しかしまあ、何度でも来たい長崎に来ることができたので満足です。いや、満足しててはいけませんね、ここからが肝心。
コインロッカーに荷物を預けて、まずは
西坂公園を目指しましょう。
フィリポ・デ・ヘスス教会
西坂公園まで来られて、ようやくほっとひと息。キリシタン史はここが原点と言っても過言ではないかも。
26聖人が殉教した場所です。
目の前にはフィリポ・デ・ヘスス教会。
フィリポ・デ・ヘススもここで殉教した一人でした。彼のことを思ってメキシコから巡礼に来る人もいます。

フィリポ・デ・ヘスス教会 |

解説板 |

地図 |

石に刻まれた年号 |
日本二十六聖人記念レリーフ
舟越保武が制作した有名なレリーフ。修復されて、以前来た時よりきれいになっています。
26聖人の列聖100周年を記念して建立されたものです。
カトリックの公式巡礼地にも指定されていおり、公園には祈る人の姿も。私も祈って巡礼を始めましょう☆
《付記》
私が訪れてから約2ヶ月の2019年11月24日、長崎を訪れたローマ教皇フランシスコ1世は、爆心地でメッセージを発信した後、西坂公園を訪れました。

フロイス記念碑 |

日本二十六聖人記念レリーフ |

西坂殉教地 |

西坂公園 |
 二十六聖人 |

西坂巡礼所 |

床のモザイク画 |

隣はNHK |
日本二十六聖人記念館
では
日本二十六聖人記念館へ。7年ぶりです。1962年の開館から48年となる2010年に全面リニューアルされ、耐震工事も行われました。
今井兼次が設計した建物と壁画は、リニューアル後もほとんど変わっておらず、安心しました。
もちろん配置とか変わっていて、加わったものもありますけどね。全体的に整えられてスッキリした気がします。
今井兼次のメタファー
日本二十六聖人記念レリーフは舟越保武の作ですが、その台座である床や背面のモザイク画は今井兼次が制作したもの。舟越保武も今井兼次もカトリックですが、今井兼次の方がより抽象的でメタファー(隠喩)が込められているのが特徴です。
足元の床モザイク画は交差した槍がモチーフで、26聖人が突き刺された槍、そしてたぶんイエス・キリストが刺し貫かれた槍をも意味しています。側面に刻まれているのは、上部に鳩、そしてAとΩの文字、中心には光の繭に包まれた殉教者、下部に炎。命が天に捧げられていく様子のように思えます。
記念館に入ろうとレリーフの裏に回ると、ここにもモザイク画があったのかと驚くのですが、描かれているのは26聖人が京都から長崎まで歩いた苦難の道のり。上部にはラテン語で「SURSUM
CORDA」(心を高め)とあり、道の果てである右下にはぶどうの実が。ちょうど定礎石の真上にあたるのですが、数えると26個です。
神様に捧げられたぶどうの実として殉教者のことを表現しているのではないでしょうか。舟越保武のブロンズレリーフも素晴らしいのですが、それだけでなく細部にも目を向けると恵みが大きくなります。この公園全体が天に捧げられた作品なのでしょうね。
 日本二十六聖人記念館 |

レリーフの側面と裏側 |

初代館長 結城了悟師 |

片岡弥吉らの言葉 |

壁画 |

扉 |

トマス小崎 |

トマス小崎の手紙 |
金鍔次兵衛像
こちらは、以前来た時見逃して、今回必ず見るぞと思っていたトマス金鍔次兵衛(きんつば・じひょうえ)像。
アウグスチノ会の司祭で、2008年に列福された
ペトロ岐部と187殉教者の一人です。
様々な伝説的エピソードが伝えられいますが、それは一人でも多くの人を救おうとしているうちに生まれたものでしょう。伝説よりもその心に思いを馳せます。
トマス金鍔次兵衛はマニラに渡って修道会に入り、司祭叙階されたのですが、記念館入口付近に
聖ロレンソ・ルイスの像がありました。フィリピンで初めての殉教者で、西坂で殉教した人ですね。
トマス西と15殉教者の一人として、1987年に教皇ヨハネ・パウロ二世によって列聖されました。

中庭 |

トマス金鍔次兵衛解説 |

ロレンソ・ルイス像 |

ロレンソ・ルイス解説 |
教皇フランシスコがお出迎え
記念館に入ると、玄関ホールでは教皇フランシスコがお出迎え。もうすぐ教皇が来日し、長崎でミサが行われる予定だから盛り上がっているようです。
日本二十六聖人記念館は、各所に今井兼次のデザインが散りばめられていて、それを見つけるのも一つの愉しみだったりします。
教皇の右手にあるのは「石膏レリーフAΩ」と題された作品ですね。「私はアルファ(A)であり、オメガ(Ω)である」とは新約聖書の黙示録にある言葉。キリストを意味しているのでしょう。
ガウディの影響を受けた有機的かつシンボリックで、信仰的なイメージが込められたデザインには、心を清らかなもので満たしてくれる効果があると思います♪

レリーフ裏側も必見 |

記念館入口 |

至福の丘 |
 今井兼次のデザイン |
1階展示室
展示室内は基本的に写真撮影可だそう。前来た時はダメだった気がするんだけど、変わったんですかね。
有り難いことです (*ˊᵕˋ*)
展示室に足を踏み入れると目に飛び込んでくるのは、ガラスケース内の
フランシスコ・ザビエル像と十字架にかけられた
パウロ三木。
展示はゾーン分けされていて、1階にゾーン1~8、2階にゾーン9と10があるようです。とりあえず順路と思しき左手から見ていくことにしましょう。

26聖人の画 |

聖フィリッポ伝 |

26聖人レリーフ模型 |

聖人のメダル |
26聖人の聖遺物
こちらは1860年に里帰り(日本にもたらされた)26聖人の聖遺物。パウロ三木、
ヨハネ五島、
ヤコブ(ディエゴとも)喜斎の遺骨だそうです!
いきなりすごいものを目にして感動が追いつきません。ガラスケースに普通に並んでいのが、さすが本場だなというか。ため息が出ちゃいます。
これを見るためだけでも遠路はるばる来る価値あると思います。ここでお祈り始めちゃう人、絶対いると思う。

26聖人の遺骨 |

ヴィリオン神父の本 |

永遠の巡礼者ザビエル |

ザビエル像解説 |
ザビエル自筆書簡
ああ、これもすごい。ポルトガル国王ジョアン3世に宛てたザビエルの自筆書簡です☆
ジョアン3世はイエズス会のアジア宣教のスポンサーでした。
1546年5月の日付だから、ザビエルが日本に来る前のものですね。それでもザビエルが直接書いた手紙があるなんて・・・もう、感嘆。

ザビエル書簡解説 |

ザビエル像 |

ザビエルの死を描いた銅版画 |

ザビエル帰天の様子を刻んだメダル |
﨑津コレクション
「﨑津コレクション」のコーナーもありました。天草の﨑津で発見された遺物で、外国で作られた金属メダルをお手本にして、日本人信徒が手ずから制作した白蝶貝のメダルです。
こういったものによって潜伏キリシタンの共同体は維持されていたんでしょう。
うーんと、潜伏期の遺物を見ているということは、順路飛ばしてしまっているみたいですね (;^_^A
 﨑津コレクション |
 白蝶貝のメダル |

聖十字架の破片 |

南蛮帽子 |
パウロ三木像
展示室の奥まで来てパウロ三木像を見上げます。こんな風に十字架にかけられたんですね。最後まで説教をしていたというパウロ三木――。自然と頭が下がります。
このゾーンは迫害と殉教なので、宗門人別改めをして記した宗門改帳や踏絵(複製)、高札が並びます。
踏絵はもちろん複製ですが(本物は東京国立博物館にあって、その他は複製)、マーチン・スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンスー」で使用されたものだそう。この映画によって、日本人自身がキリシタン迫害と殉教の歴史を知ったという部分があると思います。日本人に教えてくれたのではないかと、私は捉えています。
マストリジ神父の自筆書簡
本当にすごいものがたくさんありますね。1637年に西坂で殉教したマストリジ(マストリリとも)神父の自筆書簡もありました。
マストリジ神父は、転びバテレンのフェレイラを再び信仰に戻させるため来日した神父。日本に到着してすぐに捕らえられ、長崎に護送され酷い拷問を受け殉教しました(参考:
江戸切支丹屋敷ページ内⇒殉教者マストリリ神父)。

マストリジ神父自筆書簡について |

『島原乱記』 |

島原城跡で発掘された |

殉教者のシャツ |
丹生コレクション
展示室の島になった所に、丹生(にゅう)コレクションが光を浴びていました。長崎県で重要文化財の指定を受けているのですが、発掘されたのは大分県の丹生。
なんで長崎県の指定文化財になっているのか詳しい事情はわかりませんが、貴重なものであることは確かです。
この何の変哲もない茶壺の中に、木彫りの聖母子像をはじめ、ロザリオやメダル、十字架、ホスティアの破片などが入れられて、土中深くに埋められていたのだとか。
これ、キリシタンにとっては、お宝中のお宝で、信仰の共同体を支える拠り所となっていたものでしょう。偶然発見されたというけれど、時を経て彼らの思いが噴出して現れたようにも感じます。バラバラとなったロザリオの珠を見つめていると、これをくくって祈っていた人たちのオラショが聞こえてきそう。もう泣けてきます。
 丹生コレクション |
 ロザリオの珠 |
 ホスティアの破片 |

発掘された遺物 |
中浦ジュリアン自筆書簡
涙のまま次の展示ケースに進むと、中浦ジュリアン自筆書簡でした。
これも大変貴重なものですよね。これ一つ見るために地球の反対側まで行く価値があるくらい。
第三者を通してもたらされたものだそうで、結城了悟師が訳した日本文も添えられています。英語と韓国語もありますね。
手紙の最後に「今日は1621年9月21日」とありますね。どんな気持ちでこれを書いたんだろう。世界を歩いたキリシタン・中浦ジュリアン神父が殉教するのは1633(寛永10)年、ここ西坂ででした。

日本語訳 |
 中浦ジュリアン自筆書簡 |

日本のために書かれたカテキスモ |

イエズス会が好んで使ったマーク |
イグナチオ・デ・ロヨラの遺物
どんだけすごいんだろう、イグナチオ(イグナティウスとも)・デ・ロヨラの聖遺物までありました。
ここはイエズス会の展示ケースとなっていて、イエズス会の初代総長ロヨラの肖像画と遺物、著書『霊操』などが並べられています。
第3代総長フランシスコ・ボルハ(ボルジアとも)の遺物と自筆書簡もあります。この人も聖人に上げられているのでこれらは聖遺物です。
来日した宣教師の報告書に名前の出てくる第5代総長クラウディオ・アクアヴィヴァの肖像画も。イエズス会士たちはこの人宛に報告書を書いていたんですね。アクアヴィヴァ総長の在位は1581~1615年なので、日本のキリシタン史におけるとても大切な時期に報告の受け手であったわけです。
 初代総長ロヨラ |

聖ロヨラの遺物 |

聖ボルハの遺物 |

アクアヴィヴァ総長 |
イエズス会聖人の聖遺物
こちらもサラッと置かれていますが、イエズス会の聖人、ロヨラ、ザビエル、ボルハなどの遺物が収められた収められた遺物箱だとか。
眩暈がするくらいすごいラインナップ。というか、聖遺物って、どんだけ細分化されて世界各地に配られているんでしょう。
まぁ、聖遺物に出会わせてもらえる身としては感謝なんですけど。歴史を感じさせる何かを残し、それを証として伝えるという意識が高いのかなと思います。それが400年以上も前からなんだから、未来を見据えていたんだろうなと。

聖遺物箱解説 |

ザビエルらのメダル |

『イエズス会の殉教者』 |

モンタヌス『日本誌』 |
舟越保武作「福者 高山右近」
また一つの展示ケースに行くと、舟越保武作の高山右近像が。
舟越保武作の「福者 高山右近」となっていますが、舟越が制作したのが1966年で、高山右近の列福が2017年だから、「福者 高山右近」という作品名は後付けですかね(←細かい?w)
像と向き合うと、舟越が表現したかった精神性がすっと伝わってくる気がします。高山右近は西洋の教えに身を捧げたけれど、内には武士の精神と潔さ、清廉さが宿っていたのでしょう。それが迸っているように感じる作品です。
この高山右近像は、後ろ姿もとてもいいですね。後ろから見た様子にもこだわっていたのではないでしょうか。
あと、順路に沿って見学していないため変なところに挿入することになりましたが、↓のサムネイルに上げたイグナチオ・デ・ロヨラの自筆書簡も必見中の必見。サムネイル画像をクリックしてもらう方が画質がきれいなのでこちらに上げました☆
 高山右近像 |

大航海時代の基本法 |

ロヨラの自筆書簡 |

ロヨラの自筆書簡解説 |
守山甚三郎のコーナー
1階の細長い展示室脇には、二つの円形の特別展示室が設けられ、「ゾーン5:かくれキリシタン」となっています。
従来よく「隠れキリシタン」と呼びならわされ、専門家によっては「カクレキリシタン」「かくれキリシタン」、あるいは「潜伏キリシタン」と呼ばれてきた存在に対する呼称は、ここ数年で一気に「潜伏キリシタン」が多く用いられるようになってきましたね。
長崎・熊本の潜伏キリシタン関連遺跡の世界遺産登録が影響しているのでしょうけど、呼称の統一は私は望ましいことだと考えています。バラバラに呼び名によって、一般の人にはわかりにくいものとなっていたから。
江戸時代の禁教令下で信仰を守っていたのが「潜伏キリシタン」、(キリスト教禁令の)高札撤去後も先祖の習わしに則って独特の宗教習俗を守ったのが「かくれキリシタン」ということで、いいんじゃないでしょうかね。
さて、潜伏キリシタンの信仰を最も体現していた者の一人が守山甚三郎。一つ目の円形展示室に入ると守山甚三郎のコーナーがありました。
日本の開国⇒信徒発見⇒最後の迫害「浦上四番崩れ」⇒浦上信徒総流配の「旅」⇒高札撤去
という一連の流れを確認。このストーリーが長崎にはしっかり染み込んでいます。
日本で唯一発掘されたキリシタン遺品
特別展示室に入る手前にある「日本で唯一発掘されたキリシタン遺品」という展示も注目に値するものでした。一度通過してしまい、後で「待てよ」と思って引き返してよく解説を読んで重要性を悟りました。年代が戻ってしまいますが、1600年代の迫害で殉教したトマス市五郎左衛門とその子ドミンゴ与助の遺骨だそうです。
2人は小干(こぼし)の浦の殉教者として覚えられていて、殉教したとされる所には殉教碑が建てられています(私は未踏)。彼らの存在と殉教地を明らかにしたのは加藤十久雄氏と結城了悟師で、現地の殉教碑にはトマスとドミンゴの遺骨の一部が納められていると聞きました。
展示されている石箱の中にも遺骨が納められているということです。見ることはできないけれど、感じることはできますね。「日本で唯一発掘されたキリシタン遺品」と言い得るかどうかは、異論がありそうですけど...(←これも細かいですかね?w)

大浦天主堂 |

キリシタンの遺品 |

小干の浦の殉教者 |

殉教者の遺骨入り |
特別展示室
特別展示室は今井兼次が神経を遣って設計した空間。足を踏み入れた者を潜伏時代に誘います。
薄暗い室内の真ん中に置かれているのは洗礼盤。フィリポ・デ・ヘススが洗礼を受けた教会洗礼盤のレプリカだそうです。
はぉぅ~(←深いため息)、なんと。ここでは見るだけなく、体験させてくれるんですね☆
 ゾーン5:かくれキリシタン |

1682(天和2)年の高札 |

マリア観音 |

雪のサンタマリア |

潜伏キリシタンの土人形 |

生月の老木で作った十字架 |

十字架解説 |
 特別展示室 |
没収を免れたピエタ
またこちらはすごいですね。16~17世紀にイタリアで作られたプラケット(銅牌。大きめのメダル)なんですが、こういった物は奉行所に没収されて踏絵に嵌め込まれて信徒摘発に使われました。
しかしこのプラケットは、キリシタンたちが守り抜いて没収を免れ、絵踏みに使用されなかったのだとか。昭和37年に発見され、昭和45年に県の指定文化財となったと書かれています。
題材は十字架降架、ピエタ。イエス・キリストの体や顔がとても精密に表現されています。これを手放したくなかった気持ちは痛いほどわかります。たぶん役人に渡して絵踏みで踏まれるようになったら、もう一度キリストを十字架に架けるようなものだと思ったのでしょう。
ん? 解説文が日本語と英語、韓国語で書かれていて、同じ内容かと思ったら、韓国語では「長崎市カタブチ町の山林で発見された」となっていますね。漢字じゃないからカタブチ町がどこかわからず残念ですが、いやそれより韓国語でしか書かれていない情報があるって不思議じゃないですか。キリシタンに詳しい韓国人研究者が展示リニューアルに携わったんでしょうか。

プラケット |

日本製メダル |

キリシタンが所持した弥勒菩薩像 |

解説 |

五島の儀式鏡 |

儀式鏡の解説 |

丹生コレクションのキリスト像 |

解説 |
隠れキリシタン祭事の再現
もう一つの特別展示室に入ると、今度は「隠れキリシタン祭事」が再現されていました。タイムスリップして、その場にいるみたいです。
低くオラショが聞こえてくる・・・のは、空耳ではなくてエンドレスで流されているビデオ映像の音声。潜伏キリシタンの儀式を撮影したものだから、ぴったりですけどね。
ゾーン名は「かくれキリシタン」なのにそこでの展示は「隠れキリシタン祭事」となっていて、表記の不統一が気になります。いろんな説があるけど、博物館内では統一してほしいなと。細かすぎる見学者で申し訳ないんですが。。
「五島崩れ」で信徒が入れられた牢屋の柱
この展示室で衝撃を受けたのは、「五島崩れ」の時に信徒が入れられた牢屋の柱(↓のサムネイルに)。手を伸ばせば届きそうな所に建てられています。「浦上四番崩れ」に次いで起こった「五島崩れ」も長崎のキリシタン史で忘れることができない悲惨な出来事、迫害と殉教の歴史です。
「崩れ」とは、潜伏時代に信仰を受け継いで組織が大規模に摘発されること。五島列島での「崩れ」は、1868(明治元)年9月(西暦だと11月)に久賀(ひさか)島から始まりました。下五島の福江島では、岐宿の帳方・水浦久三郎の家、楠原の帳方・狩浦喜代助の家のほか、三井楽(岳とも)の山下善三郎の家などが牢屋になり、逮捕された信徒が詰め込まれました。
私は福江島では水浦牢、楠原牢には行ったことがあるのですが、三井楽の牢には行ったことがなく。でもここに建物の一部が保存されていたんですね。まるで生き証人に会ったみたいです。彼らが触れた柱なんだ・・・。
「五島崩れ」の翌年、イギリス公使ハリー・パークスが実態調査に久賀島訪れてからは拷問は中止されましたが、全ての人が出牢するまで数年間がかかりました。堂々と暮らせるようになる高札撤去は1873(明治6)年のこと。長きにわたる潜伏と最後の迫害、最後の殉教。柱の傷がその人たちに加えられた傷のように思えてなりません。

潜伏キリシタンの祭壇 |

オラショ解説 |

オラショ |

祭壇の再現 |

牢屋の柱 |

牢屋の柱解説 |

ビデオ映像 |

奈留島のクリスマス「お大夜」(おたいや) |
2階へ
では2階へと参りましょう。階段を上るとあるのが梅と椿のステンドグラス。26聖人の遺骨が納められた栄光の間の入り口横に設置されています。
栄光の間は写真撮影不可。正面に「神は愛なり」と縦書きされたT字の柱、そのバックに十字架を加えた4羽の葉とのステンドグラスが据えられています。
中央にある白い祭壇に納められているのが聖遺骨。床は無数の白い石で敷き詰められています。これらは全て聖書がモチーフとなったデザインですね。天井にも鳥のように羽ばたく十字架があしらわれています。殉教者の魂が天と地を行き来して取り次ぎしてくれることを願ったものでしょうか。
室内には幾体ものマリア観音が置かれて、静かに母の愛で守っているかのようです。申し訳ないけど、リアルな手の形のケースに納められたディエゴ喜斎の腕の遺骨にはギョッとしてしまいました。宣教師がスペインに送り、のちに日本へともたらされたのだそうです。
マカオから里帰りした188殉教者の遺骨
その他にも、奥の聖遺物室ではマカオから里帰りしたという188殉教者の遺骨にも会うことができました。大きな3つのケースに納められていて、もたらされたままの様子のよう。マカオに行った時、聖ポール教会で、数十段のキャビネットに入った日本人キリシタンの遺骨を見たことがあるけれど、その一部でしょうか?
教会が火災になったため、日本人キリシタンの遺骨は外国人のものと混じってしまい、どれがどれだかわからなくなってしまったとそこでは言っていたのですが、これはまた違うところからもたらされたんでしょうかね。
どうして188殉教者の遺骨と言えるのか、ちょっと知りたく思うところではあります。そんなこと追及せず、彼らの信仰にあやかるのがいいのかもしれないけど。
中庭へ
集中して見学したので、ひと休みしに中庭に出ました。
中央に新しい記念碑が建てられ、そこにあった金鍔次兵衛像は1階に(さっき見た)。以前1階入口にあった経の峰のキリシタン墓はこちらに移されたんですね。
一旦リニューアルオープンしてからも、いろいろと細かく変えていっているみたいですね。それが宜しいかと思います。
おっと、新しい記念碑は「小市ディエゴと
朝鮮人福者カイヨ殉教顕彰碑」だそうです。へええー、このような碑が建てられるなんて、いい意味で時代が変わりましたね。ググってみると、下のようにカトリック教報(2016年5月)に書かれていました。
小市ディエゴと朝鮮人福者カイヨを顕彰する碑は、李文煕名誉大司教と張益名誉司教の発案によるもの。約390年前、宣教師に宿を貸した罪で投獄されていた小市は、朝鮮から連行されたカイヨと同じ牢獄で出会う。1624年11月15日、2人は一緒に長崎・西坂で火刑に処せられた。カイヨは日本二〇五福者の1人に加えられている。(中略)
髙見大司教はテグ教区に謝意を表 すとともに、2人の殉教者は「象徴的に韓国と日本の殉教者を代表しているといえる。生まれた国や境遇は違っていても、同じ信仰を共有し、キリストの愛によって深い絆をつくり、共に殉教によってその信仰と愛を証しした。私たちも、国や文化や歴史は違っていても、同じ信仰と愛の力によってその違いを超え、理解し合い、より強い絆をつくって、神の愛を証しすることがで
きるよう、殉教者の取り次ぎを願おうと招いた。
つまり信仰的な日韓友好記念碑なんですね。「何でその2人だけの碑を?」と思いましたが納得しました。日本の信徒発見150年行事として韓国のカトリック大邱大司教区が発案し、韓国の彫刻家に製作を依頼して、長崎大司教区に寄贈されたというのも意義深く感じます。
信徒発見は1865年だから150周年は2015年。そこからこのような企画が立てられるようになり、一年後の2016年3月16日に碑が建てられたんですね。博物館もだけど、歴史もいい方向にリニューアルしていってるのかもしれないですね♪

大分のキリシタン墓碑 |

キリシタン墓碑 |

経の峰墓地の墓碑 |

小市ディエゴと朝鮮人福者カイヨ殉教顕彰碑 |
2階展示室
では再び館内へ。2階の展示室はゾーン8「その時世界は」ゾーン9「その時の日本」となっていて、栄光の間はゾーン10でラストに見るべきものだったようです。
今回は全体的に順路無視して回ってしまったので(だって気になる展示があって目移りしちゃうんだもの)、次回は順番通りに見学して記すようにしますね。いつになるかわからないけど
(^_^;)
ゾーン8と9をざっと見学。1階ほどのインパクトはありませんが、1階の展示がすご過ぎるからですね。窓側の壁にあるのは細川ガラシャ肖像画と4人のステンドグラス。エンリケ航海王子、フランシスコ・ザビエル、ロレンソ了斎、細川ガラシャという人選は若干ユニークです。
ヴィセンテ・カウンの肖像画!
おっ、
ヴィセンテ・カウンの肖像画とはこれまたユニークな! 西坂で殉教したし、205福者の一人だから肖像画があっても不思議はないのだけど、先ほどのカイヨに続き、朝鮮人で2番目にイエズス会士となった人ですね。
ペドロ・モレホン神父の書簡によると、ヴィセンテ・カウンは文禄・慶長の役の際、小西行長の軍に捕えられて来日し、13歳でモレホン神父から志岐で受洗しました。同宿として、主に朝鮮人のために働き、その後他の者たちと一緒に北京に派遣され7年間滞在しました。
中国人からスパイではないかと疑われたためマカオに移り、1620年に日本へ戻りました。それから
ジョヴァンニ・バプティスタ・ゾラ神父の下で奉仕活動をしていましたが、1625年12月、密告によって島原半島の口之津で捕えられ、1626年6月20日
フランシスコ・パチェコ神父、バルタザール・デ・トルレス神父、
ゾラ神父、
ジョアン永井内膳らと共に火刑に処されて帰天。波瀾に満ちた46年の生涯でした。
日本、朝鮮、中国と、国境を越えて働き、その国の人びとを天の国籍にしようとしたんですね。そういう人が真の国際人なのかも。ヴィセンテみたいな人が400年も前にいたことを心に留めたいです。

オブジェ |

スコセッシ監督サイン入り脚本 |

ヴィセンテ・カウン |

ヴィセンテ・カウンについて |

その頃の船 |

象牙細工 |

細川ガラシャ肖像画 |

肖像画について |

ザビエル |
 エンリケ航海王子 |
 ロレンソ了斎 |

細川忠興書状 |
長谷川路可「長崎への道」
博物館で最後にしみじみと見上げたのは長谷川路可のフレスコ画「長崎への道」。
壁の漆喰が乾かないうちに絵の具を染み込ませて安定させるフレスコ画は、耐久性があるけれど、壁に直接描いているので基本動かせません。また作者が現地で直接作業しないとダメですよね。作品も見事だけど、ここで路可が祈りながら描いたんだと思うと、またふつふつと湧き上がってくる感動が。
西洋の技法で日本の絵巻を
よく見ると、装幀のように縁が描かれているのですが、キリシタンになった大名たちの家紋があしらわれています。細い線で輪郭を取り、あまり陰影を強調せずに色付けしていて、色使いもどぎつくないですね。西洋の絵の具で描かれているのに、和と調和しています。
絵巻の技法で一連の流れを一枚の絵に仕上げているから、部分部分の前に立って「長崎への道」を追うことができます。フレスコ画という西洋の技法で、絵巻を書いてしまうというアイデアも抜群なんですが、それがキリシタンという存在と通じるものがある気がします。
キリスト教は西洋の教えだけど、それを受容した日本人たちが、自らの命よりもその信仰を貴いものとして証したのが「殉教」なのですから。「殉教」(ギリシャ語:Martyria)という言葉は元々「証人」という意味の言葉からきていますが、「長崎への道」は証の道だったのではないかと感じました。
二十六聖人記念碑
記念館を後にして、再び記念碑の前に。この台座と奥に見える聖フィリポ教会、そして記念館は今井兼次の作。
記念館について今井は「建物自体が殉教の歴史を物語るように設計した」と語り、この建築で大隈記念学術褒賞を受けました。
記念碑を制作した船越保武は、この作品によって高村光太郎賞を受賞。2002年、26聖人の殉教と同じ2月5日に他界しました。
やっぱり・・・この全体が神様の指による作品のように思います。それぞれが祈り、持てる力をもって制作したのだけど、総合ディレクターは神様だったという、そんなイメージが浮かんできます。
浦上街道を歩きましょうか♪
長崎浦上街道ここに始まる
西坂公園から出て、坂道を上ろうとすると右手に「長崎浦上街道ここに始まる」の碑。26聖人が来たのがこの道だったことを示す碑ですね。
今日はこの道を26聖人とは逆向きに、時津に向かって歩こうと思います。時間があったら時津まで歩きたいところだけど、さすがに無理なのでその半分くらい、長崎大医学部まで歩けたらと。
その分途中で寄りたい所にも寄ってみようと考えてますけど、道案内がスマホのナビだけなのでどうなることやら。とりあえず行ける所まで~(=゚ω゚)ノ
聖徳寺
浦上街道を行くと5分ほどで現れる聖徳寺。浦上(うらかみ)村の檀那寺だった寺院です。江戸時代は寺請(てらうけ)制度というものが布かれていたので、全ての国民が寺に籍を置かなければなりませんでした。
寺請制度は、キリシタンなど邪宗門を摘発・締め出し・統制するためなので、キリシタンが多かった長崎で、この制度が緩かったはずがありません。
「信徒発見」された浦上キリシタンは、教会に復帰するまでの二百数十年間この寺に所属し、「キリシタンではないこと」の証明としていたわけですね。
「浦上四番崩れ」の発火点
「最後の迫害」と言われることもある「浦上四番崩れ」ですが、その発端は浦上村山里本原郷の茂吉が死去した時、聖徳寺の僧侶を呼ばずに埋葬したことでした(浦上自葬事件)。聖徳寺が庄屋に訴えて問題があらわになりましたが、その後も自葬は相次ぎました。
そこで奉行所の役人が密かに浦上村を調べたところ、民家に偽装した4ヶ所の秘密礼拝堂があることが発覚。「信徒発見」以降、浦上村の潜伏していた信徒が信仰に立ち戻る動きが活発であることを突き止めた奉行所は弾圧強化に踏み切りました。それが「浦上四番崩れ」です。
浦上村の信徒約3400人が名古屋から西の20藩22ヶ所に流配され、高札撤去となり約4年後に帰村するまでに600人以上が亡くなりました。これを「浦上キリシタン流配事件」と呼んでいます。「浦上四番崩れ」の発火点はこの寺であったと言っても過言ではないでしょう。
銭座跡
街道をしばらく進むと銭座(ぜんざ)跡。聖徳寺やこの銭座のある地域は昔、馬込郷と呼ばれていました。
遠藤周作の「女の一生 一部・キクの場合」の
主人公キクはこの馬込郷の出身という設定ですね。だからこの小説の最初の場面には聖徳寺と馬込郷が出てきます。
今ではすっかり住宅街ですが、遠藤周作は作家の創造力を駆使してこう描いています。
「楠やハンの樹の多い山。その斜面に点在する藁屋根の農家。そしてそこからは真下に長崎の入り江や埋めたてて作った新田が見下ろせる。
陽光と緑にみち、そのくせ気の遠くなるほど静かな馬込郷の集落。大きな楠から小鳥の声がする。その声が聞えなくなるお昼時にはどこかで鶏が鳴いている。」(ママ)
さすが周作。文章を思い出しながら歩くと、当時の景色が瞼に浮かんでくるような☆
こんな道も!?
昔の街道というのは・・・、時にすごい所を通っていますよね。車はおろか、人一人通るのがやっとみたいな道が続いて、「ほんとにぃ!?」と口から出そうになります。
長崎は特に坂が多いからアップダウンも激しくて、目の前に坂が現れる度に「マジかっ」と立ち止まるしか。
と言ってても仕方ないので、それでも前に進みますが。うむ、人生のようだ。。
坂本国際墓地に寄り道
浦上街道の途中、永井隆(ながい・たかし)夫妻のお墓がある坂本国際墓地にも寄るつもりです。坂本国際墓地は、1888(明治21)年、浦上山里村に開設された外国人墓地。墓地に近くなったら広い道路になり、急に車通りが増えました。バスも通っているみたい。柵の外から墓地を覗くと十字架が見えます。外国人墓地ですもんね。宣教師さんも眠っています。
永井隆之墓
案内板が出ていて、ちゃんと来ることができました、永井隆夫妻のお墓。「永井隆之墓」と書かれていますが、奥さんの緑さんも葬られています。
葬られていると言っても、原爆で一瞬にして亡くなって、骨片とロザリオくらししか残されてなかったわけですけど。
墓地に設置された解説板「長崎さるくモデルコース」は、26聖人のことをしっかり書いてくれているのに、永井隆については書かれていませんね。カトリック信者や医学関係者もお墓に来たいと思うんですけど、ちょっと街から遠いからか。
永井隆と原爆
永井隆は1908(明治41)年、島根県松江市に生まれた医師。1945(昭和20)年8月助教授を務めていた長崎医科大(現・長崎大)で被爆し、重傷も負いましたが、自宅に戻ることもなくそのまま患者の治療にあたりました。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからでした。
原爆投下から3日後にようやく自宅に戻りましたが、妻の骨の欠片があるだけでした(子供たちは疎開していて助かった)。戦時中から医師として結核患者のX線検診をしていましたが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、白血病を発症。
被爆した体で被爆者の治療を続け、1946(昭和21)年7月、長崎駅近くで倒れ意識不明に。幸い意識は戻りましたが、その後は病床に伏すこととなりました。自宅に設けた
如己堂(にょこどう)で執筆活動を行い、カトリック信仰をもとにした『長崎の鐘』『この子を残して』など多くの著作で世界平和を訴え、1951(昭和26)年に死去。ここに眠っています。
絶筆は浦上キリシタンの物語
夫人の緑さんが、浦上村の潜伏キリシタン組織のリーダー「帳方」の子孫で、如己堂のある
長崎市永井隆記念館には「帳方屋敷の跡」碑が建てられています。島根県から出てきた永井隆は、「帳方」の子孫である森山家に下宿することとなり、そこで緑さんと出会い、のちに洗礼を受けます。洗礼名は、26聖人の一人パウロ三木に因んでパウロ。
カトリックであること、潜伏キリシタンの子孫を妻としたことに加え、自身が島根県の出身だったからか、永井隆は死期の近づく1951(昭和26)年に「浦上四番崩れ」で石見国津和野藩(今の島根県津和野町)に流配された浦上キリシタンの物語『乙女峠』を綴ります。そして4月22日に脱稿すると肩が動かなって執筆不能となり、5月1日に亡くなりました。
なので『乙女峠』は永井隆の絶筆です。この作品に出てくる守山甚三郎らは、ここ浦上村から島根に行き信仰を貫き、自分は島根からここに来てキリスト教徒になった――。そこに不思議な縁を感じていたのではないでしょうか。
最後の力を振り絞って書かれた『乙女峠』を読むと、人が生涯の最後に一番大切なことを誰かに伝えようとする、切なる思いが胸に迫ってきて自然と涙が溢れます。墓所の隣には、島根県から送られた御衣黄(ぎょいこう。緑の花を咲かせる桜)が植えられていました。春は美しいんでしょうね。
 永井隆夫妻のお墓 |

島根県から送られた桜の木 |

墓所案内 |

長崎さるくモデルコース |
浦上街道
墓所を後にして、再び「本当に街道なのかな?」と半信半疑で歩いていたら、「浦上街道」と刻まれた碑が。疑念を吹き飛ばしてくれました。
にゃんこ多め、下校する子どもたち多めの生活道路です。所々に階段があって車が通らないから安全なのでしょう。
こちらにある解説板には、「日本二十六聖人やオランダ商館医ケンペルなど、多くの人びとが往来しました。」と書かれているだけですが、先ほどの坂本国際墓地の解説板「長崎さるくモデルコース」には下のように書かれていました。
浦上街道の碑
浦上街道は大村湾に臨む港町・時津から長崎駅前の西坂公園まで続く約12㎞の街道で、かつで日本二十六聖人もこの道を通り、西坂到着後処刑されました。二十六聖人は、京都から西坂までの約1,000㎞道程を、寒風吹き荒ぶ冬の真っ只中、左耳を削がれ両手を後ろに縛られ、ボロボロの着物をまとい裸足で歩んだ旅でした。(ママ)
若干日本語を手直ししたい気がしないでもない(お前が言うかという感じですね汗)ですが、26聖人のことを知らせようとする気持ちが感じられます。巡礼者にはこちらの説明が有り難いですね。
山王神社
おおう、やっと着きました、山王神社。
被爆した楠、めちゃめちゃ大きい!(←語彙力低め)
楠の内部も梯子を上って見学しましたが、そういったことは解説板でじっくりお読みいただくとして、私は26聖人のエピソードをご紹介しましょうかね。この神社に設置されている解説板は多々あるのですが、26聖人に触れているものはないようです。
またしても「長崎さるくモデルコース」からの引用ですけど☆
この大クスのある周辺には当時、サン・ラザロ病院があったとされ、西坂へと向かう26人が休憩をとった場所といわれます。ここでパウロ三木は、告白の時間を与えられ、ディエゴ喜斎とヨハネ五島は、正式にイエズス会に入信する願いが叶ったそうです。樹齢500年以上の大クスは、西坂へ26聖人が歩いた時代のことも、原爆が投下されたあの日のことも、静かに見てきた歴史の証人でもある木なのです。(ママ)
すいません、あのう、「イエズス会に入信」ではなく「イエズス会に入会」ですよね。キリスト教への「入信」は既にしていて、「入信」して信仰の価値を感じているからここまで歩いてきたのです。水を差すつもりはなく、次に書き換える時にでも訂正をお願いしたく指摘させていただきました。大意には賛成です。私もその「歴史の証人」を見るために来ましたので~(*^-^*)

解説板 |
 解説板 |
 山王神社 |

大クス |
 解説板 |
 山王神社 |
 大クス |
 大クス |
山王神社二の鳥居
小道をはさんで建っているのが、一本となってしまった二の鳥居。一本柱鳥居とも呼ばれています。
山王神社の鳥居は参道に4つありましたが、本殿から遠い(爆心地により近い)四の鳥居と三の鳥居は倒壊、二の鳥居は半分になって残りました。
倒壊した半分の石材が置かれ、ベンチもあってポケットパークのようになっています。修学旅行生とか原爆のことを学ぶ人がここを訪れるようですね。私も直接見てみたかったです。
ここまで歩きどおしだったので、座ってお茶飲もっと。街道沿いなら店くらいあるだろうというのは甘かったですね。私にとってはアルアルな展開ですけど涙。
キリシタン時代には眼下に海が
キリシタン時代はここから海が望めたでしょうね。古地図で見ると、浦上街道は高い所を通っていて、その下は海岸線です。長崎駅の一帯は全部海だったと思うと、ちょっと怖い気がしますが、現代ではこういったことが当たり前になっています。
私が住んでいる神奈川県でも、横浜駅周辺が海の底だったことを誰も(知らず?)意識せずに普通に暮らしています。ひとたび大地震でもあって、津波が起これば一気に崩れ去る日常かもしれないのに。確固たるものだと思っているものも、何かあれば崩れてしまうものであると悟れば、ものの見方が変わることでしょう。
26聖人も浦上キリシタンも、そんな現世の脆弱さに気付き、本当に確かなものを選び取ろうとしていた人たちと言えるのかもしれません。目に映るものの脆さを見抜き、目に見えないものの価値を悟って選択するって、とても水準の高いことだと思います。
そういうところの一部でも、爪の垢ほどでも自分のものにしたくて、私は足跡をたどっているだろうな。・・・ということで、そろそろ腰を上げましょうか。あともうちょっと頑張ろう♪
経の峰墓地へ行きたくて
さあてと、本日の大詰めです。キリシタン時代のキリシタン墓碑が見たくて、経の峰墓地を目指します。
墓地のある所がイマイチ地図上にはっきり示されず、とりあえず墓地に近いランドマークとして坂本小学校をロックオン。
スマホのナビで行こうとしますが、浦上街道から外れたのか、私の背丈よりも繁茂する緑に囲まれ、人とすれ違うこともできないようなお一人様用小道を上ったり下りたり。
「ここはどこ?」と思うたびに、ひょっこりネコが現れて、ちょっと慰めになりますが、道が示されるわけでもなく。。それでも何とか坂本小学校に着きました。ここで誰かに経の峰墓地の場所を聞こうと考えていたのですが、人おらず。まず人を探さなければならないらしい。
ウロウロしていたら外国人と、おばあさんには会うことができて、おばあさんはここの住人だけど経の峰墓地は知らないと。だけど墓地ならあると、指差す先は山の上・・・。行くか、行くしかわな、そりゃ。ここまで来たんだもの、二度と来られないかもしれないんだもの。
意を決して15分ほど急坂を上ると、十字架付きの墓碑が見えてきました。ここに昔のキリシタン墓碑もあるかが問題。日本二十六聖人記念館の中庭でも経の峰墓地のキリシタン墓碑見たから、ここが経の峰墓地ならきっとあるだろうけど――。
キリシタン墓
ありました、古いキリシタン墓碑!
記念館にあったのよりずっと大きく、経年変化をうかがえます。
実は、ひと月ほど前に行われたキリスト教史学会で大橋幸泰教授がキリシタン墓碑の写真を見せながら自説を紹介していて、「私も見たい」と思ったのがきっかけでした。長崎市内と言っていたので、ここかなと思った墓地に行こうとしていたのですが、ふと「違うかもしれない」と思い、ご本人に聞いてみることに。
大橋先生に聞いちゃいました
名刺をいただいたことがあり、メールしたことはあるけど、私のことを覚えてくれているかな?という感じでしたが、お返事くださいました。こちらですと
長崎市の該当ページのURL付きで。見ると、私が行こうとしていた所とは違う、経の峰墓地でした。私が行こうとしていた方にはもうキリシタン墓碑は無いのだとか。
聞いて良かった~。何事も確認が大事ですね! でもこれ読んだ皆さんは大橋先生にバンバンメールすることはやめましょうね。お仕事増やしちゃうので(←お前だよw
これこれ、正にこれです、見たかったキリシタン墓碑。現地には何の解説板もありませんが、上掲ページにはこう書かれています。
市指定史跡
潜伏キリシタンの墓石である。幕府の厳しいキリシタン取締りと、仏教による宗教統制の中で、 潜伏キリシタンは墓石に仏教式石塔を用い、戒(法)名を刻まなければならなかった。このような情勢の中で、この墓石は戒(法)名のない伏碑であり、 「形変り候墓石」として、寛政3年・6年・8年と3回に及ぶ長崎代官の取調べをうけ、取壊しを命ぜられながらも、なお今日に残っている。 しかしその後は切石伏碑の墓石をつくらず、 また仏教式石塔も建てず、野石を伏臥する習俗に代った。これらの墓石は信仰弾圧に対する潜伏キリシタンの抵抗心理を物語るものである。
「これらの墓石」とあるので、経の峰墓地の複数の墓碑を指して言っているのでしょう。墓地中を歩きまわって探しましたが、はっきりとキリシタン墓碑と言えるものはこれと数基(1~3基?)でした。逆に、現代のもので昔のキリシタン墓碑に倣った形の墓碑があったりで、紛らわしいかもしれないですね。
 キリシタン墓碑 |
 キリシタン墓碑 |
 キリシタン墓碑 |
 キリシタン墓碑 |
深堀達右衛門神父のお墓!!!
時折にゃんこに驚かされながら、入り組んだ墓地をぐるぐるしていたら、目に入って来た「深堀達右衛門神父」の文字。
ん、何か見覚えのある名前だなと思って、石碑に刻まれた文章を読むと、ああ!
深堀達右衛門神父って、開国後最初の日本人司祭の、あの深堀達右衛門神父ですかっ!
なんと~。こういう方のお墓は赤城の聖職者墓地にあるんだと思っていました。ここだったんですね。この墓碑の下に・・・。長崎大司教区の『100年のあゆみ』で神父の写真を見つけました。下のサムネイルで「5」となっている人です。
開国後最初の日本人司祭たち
開国後、つまり信徒発見されて、潜伏キリシタンが教会に復帰して(カトリックでは「再布教後」とも言う)から、最初に叙階された日本人司祭は、深堀達右衛門、高木源太郎、有安浪造(のちに秀之進に改名)の3人です。1875(明治8)年に大浦に神学校が設立され、3人はそこに入学。1881(明治14)年12月17日に助祭となり、1882(明治15)年12月31日に司祭として叙階されました。
3人に次いで、1887年にも5人の日本人司祭が誕生しましたが、この年の10月7日にプチジャン司教は帰天。それまでに育てられた聖職者たちは、プチジャン司教の薫陶を受けた人たちということができるでしょう。
「旅」から帰った信徒たちが、苦しい生活を立て直す一方で、神学校に子どもたちを通わせ、奉仕で建てた教会。日本人司祭の誕生はどれほど大きな喜びだったでしょう。また勝利だったと言い換えることもできようかと思います。残念なことに深堀達右衛門神父は司祭叙階から5年後に亡くなってしまいましたが、確実に種は蒔かれ、伸びていったということですね。
あぁ、今日ここに来て良かった。途中でくじけそうになってごめんなさい。お店とか寄ってたら暗くなるまでに墓地に来られなかっただろうから、お店も無くて良かったです。サンキュー!エブリシング (∩´∀`)∩

深堀家の墓 |
 深堀家の墓 |
 深堀家の墓 |
 深堀達右衛門神父 |
長崎医科大学門柱
ここまで来たら近いからと、浦上街道へ戻って長崎大学医学部まで来てみました。永井隆が勉強して、働いて、教えてもいた所だなと思って。
すると、入口に長崎医科大学の門柱が残されていました。原爆の威力を物語るものとして残されているようです。
悲惨さを感じつつ、同時に、永井隆が通った門なんだなと、少しだけ面影に触れられたような気がしました。その人が生きていた時代のものはどんどん無くなっていくから、何かが保存されているということはなかなかありません。
見てうれしい類のものではないけれど、永井隆を思うよすが(手がかり)が残されていることを幸いに思いました。
夕飯~♪
さすがに大学の近くに来たらお店があり、夕飯にありつけました。ディナータイムなのに定食が600円って、ラブユー長崎です。
ちょっと歩けば電鉄駅も。長崎駅に戻ってコインロッカーから荷物取って、仕事終わりの友だちと待ち合わせできれば、今日は無事終了です。
移動日なのにがっつり回れて、充実してました。美味しい中華丼以上に、美味しい1日だったことを感謝せねば。
旅に必要なものは?
旅に必要なものは、体力と根性、そして好奇心でしょうか。もちろんお金と時間もですが、それはとりあえず何とかなった場合。出発してから必要だなと思うのが、瞬発力、判断力、記憶力、記憶したことを思い出す力、段取り力、くじけない心、諦めない心ですかね。
多くが頭と心にかかっているわけですが、今回はなぜか頭の中に暈(かさ)がかかったみたいにぼーっとしていて、ほんと凡ミスが多くて心配です。自分の頭が心配だなんて、恥ずかしくて人にも言いにくいんですが・・・。
人間ってこうやって衰えていくものなんだなと諦観が浮かんでは消え、消えては浮かびます。しかし不思議なことに、頭と体が衰えても、好奇心は衰えないようで、感動に至っては昔より今の方が大きいということも。
知れば知るほど知識どうしが結びついて、より面白くなるという面があるようです。あらゆる面で去年より衰え、体力もどんどん落ちていきますが、尽きせぬ好奇心と根性を持ってどこまで行けるのか。
「疲れたー。今日限界まで歩いた。明日無理~」と言いながら、翌朝むっくり起き出すんだろうなと思います。今回は13日の長旅。最後まで充実して過ごせますように!
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