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天上の青
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コチラ
韓のくに紀行~春 Ⅳ
本日の主な訪問地
達城韓日友好館
大邱近代歴史館
観徳亭殉教記念館
南山100年 郷愁の道
聖母堂
2.28民主運動記念会館
半月堂
朝はトースト
朝ご飯はトーストと餅、自分で作ったスクランブルエッグ。今日は友鹿洞(ウロクトン)へ行く予定です☆
友鹿洞は、文禄の役の時、朝鮮軍に投降して戦った日本人・沙也可(さやか)が暮らした山里。今は達城(タルソン)韓日友好館が建てられています。
七星市場のバス停から
しかーし!
以前はこの達城韓日友好館に寄るシティツアーがあったのですが、今は無いのだとこちらに来て知り愕然。
諦められないので路線バスを探し、嘉昌(カチャン)行きのバスに乗って終点の一つ前で下車すればいいのだとわかりました。
で、そのバスが出るのが地下鉄「七星市場駅」だと聞いて来たのですが、七星市場の広いこと!おまけにすごいカオスで、私のような気の弱い者にはもう・・・。
バス乗り場もたくさんあって、どちらに向かうのかもわからないため右往左往。半時間もさ迷って、おばさまたちに聞きまくって、バス停までたどり着きました。後で行く人のために記しておきますと、「西門プラザ前」というバス停です。乗るのは「カチャン2」行き。
あぁ、今日は朝から前途多難。どうなることやら。いや、元々こうなるところが今まで運が良かったんだな...(^_^;)ソレナ
七星市場
バスも人も多い
時刻表
バス停は八百屋の脇
バス乗車
何とかバスに乗車。だけど今度は目的のバス停で降りられるかが心配に。。
どんどん降りていく乗客。車窓から見える風景は段々田舎っぽくなってきました。おっ、「仁者寿城」って書いてありますね。孔子の言葉「知者は楽しみ、仁者は寿ぐ」にちなんでいるでしょうね。
確かに大邱ってそんな雰囲気はあります。中心部は都会で、郊外はゆったりしていて。あ、乗客私一人になっちゃった。
仁者寿城
友鹿洞
着きました、友鹿洞!(*´▽`*)パチパチ
バス停の名前は「鹿洞書院コンノ」。
鹿洞書院(ノクトンソウォン)は沙也可を祀った祠堂のある儒教の学問所です。
大邱市内から25キロほど離れていますが、バスは市内料金なのか運賃が驚くほど安かったです(たぶん120円ほど)。タクシーにしなくて良かった~。
「友鹿洞」の名は、沙也可が「鹿を友とする村」という意味で付けたのだとか。今は住所としては「友鹿里」(ウロッリ)になっていますが、バス停横に鹿のオブジェがあるのはそのためなんですね♪
友鹿洞の地図
鹿のオブジェ
友鹿洞
達城韓日友好館
道路に面して達城韓日友好館。バス停で下りたら迷うことはないですね。周囲にここ以外建物ないですし。
こんな山里に日韓の友好館があることにも注目したいです。ここに日本人が帰化して住んでいた、それも400年も前にって、時間の感覚がぐにゃりとなります。
40年ほど前にここを訪れた司馬遼太郎は、友鹿洞に沙也可の子孫が大勢住んでいると書いていますが、今もそうなのかな?
山里
達城韓日友好館
達城韓日友好館
忠節館
達城韓日友好館の中に入る前に周囲を見学。祠堂や建物、石碑などが建てられています。こちらの忠節館は旧資料館で、現在は使われていないようですね。立派な建物ですけど。
沙也可は朝鮮に帰化して戦い、護国忠節の一生を送ったとして、「金忠善」(キム・チュンソン)の名を王からもらっています。号は「慕夏堂」(モハダン)。
「慕夏堂」とは、「朝鮮の礼と義、そして大陸の文化を慕う」という意味だそうです。それで韓国では「慕夏堂 金忠善将軍」と呼ぶことも多いみたいです。日本人としては、どうして朝鮮側に寝返って、日本側と戦っちゃうまでしただろうと思うのですが、その辺の
謎は資料館で明らかにされるのかな?
壬辰倭乱の時、朝鮮に降って戦った日本人(「降倭」という)が多くいたことは知られていますが、「沙也可」を名乗った人物が、日本における誰だったかは未だ特定されていません。日本側の記録に「沙也可」は出てこず、この人だろうと同定できる人もいないからです。
ただいくつかの説はあります。雑賀衆の鈴木孫市郎だろうとか、加藤清正麾下の武将 原田信種ではないかという。しかしどれも決定打に欠け、通説に至っていません。
建物
門
和歌山県と二階議員...
石碑
鹿洞書院
休憩スペース
園内
案内目印
館内へ
開館時間より早く着いてしまったので、外を見学して待ち、オープンと同時に中へ。受付に人いないですね。勝手に見学してていいのかなと思いながら、 とりあえず見始めます。
帰りのバスも2時間に一本ほどなので、余計なことはしていられないんですよね。
3D映像があるみたいだけど、日本語を上映してもらうには頼まないとダメそう。うーん、韓国語でいくかー。
施設案内
展示
3D映像
3D映像
韓国語版だけど、映像だし字幕も多少出るので、一応内容は理解できました。沙也可のことは、「義の武将」として描いているみたいですね。
朝鮮に来る前から儒教に惹かれ、礼儀の国朝鮮に憧れを持っていて、実際に朝鮮に来てみて日本軍の侵略は不義であると考え、部下と一緒に朝鮮軍についたという。
攻めくる日本軍を前に、朝鮮の民が山へと逃げていくのですが、老いた母親を息子が背負い、荷物を頭の上に乗せ、子供たちも従順につき従い、皆が背筋を伸ばして整然と避難する様子を見て、沙也可はここに儒教精神が根付いていると知って心動かされ、朝鮮への帰順を決意するというストーリーでした。
朝鮮に火縄銃と火薬の製造技術を伝え、映像では壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の後に幾度も戦いに出かけ、80回にわたる戦いで18の城を奪還したと言っていました。
その功績が認められ高い官位にのぼり、土地を賜って一村を成し、王から「金忠善」の名を与えられて、晩年は静かに書院で過ごしたとまとめられていました。これがおそらく当地で認識されている「沙也可像」なんでしょう。
壬辰倭乱
壬辰倭乱
水軍
戦闘
18城を奪還
家訓を書く
沙也可の著述
晩年の沙也可
和歌山に沙也可の碑
二階さん出番多し
中田氏
日韓交流史として
映像を見終えてウロウロしていると、日本語でガイドできる方が話しかけてきてくれました。名前は朴さん。
有り難く説明を受けることに。まずは日韓交流史の展示をざっと見るところから。壬辰「倭乱」のことを、こちらでは壬辰「戦争」と書いてあります。さすが「友好館」。日本人への配慮が見受けられます。
韓日交流の歴史としては、三国時代、南北国・高麗時代、朝鮮前期と活発な往来と交流があったことが知られており、壬辰戦争以後には朝鮮通信使の存在がありました。
知りたいのは史実と創作の境界線
先に3D映像を観ていたのと、私がある程度の予備知識があるとわかると、朴さんは普段より詳しく解説してくれました。私が知りたかったのは、資料で裏付けられる史実と映像などで提示されている「沙也可像」の相違点。どこからどこまでが資料で確認されている事柄で、どこからが小説などを参考に付け加えられた創作部分なのかということです。
史実と創作の境界線がどこにあるのかを明確に知っているガイドさんに会えたことは幸いでした。韓国語の資料を自分で全部読むことは不可能に近いですから。ハングルでも難しいんですが、この時代は漢字を使った朝鮮語だったので、更にハードル高いです。
日韓の年表
日韓の年表
朝鮮通信使
三国時代
南北国、高麗時代
朝鮮前期
朝鮮通信使
壬辰戦争
壬辰戦争
では交流史の中でも究極の交流であった壬辰戦争へ。こちらが戦争の流れを地図に落としたもの。日本の本で見ると、日本軍の武将たちの進軍ルートと勝ち負けが記されているのですが、反対の視点から書かれているので目新しいです。
慣れって恐ろしいですね。視覚で入ってくるに過ぎないのに、考え方まで影響を受けているのだから。朝鮮側から見れば確かにこうなるなと、納得しながら聞いていました。
戦闘地となった所には、錦山とか知ってる地名もあり、うかつにもそこが壬辰戦争が行われた地であることを知らなかったので、声には出さないけど「あ”あ”あ”」です。これだけ蹂躙しておいて知らないというのは、やっぱりダメだろうなと。アメリカ人が「長崎?どこそれ?」と言ったら、ひどいなと思うように。無知と無関心は、和解を阻害する大きな枷ですね。
朝鮮に戻らなかった人たち
壬辰戦争後、朝鮮通信使を通しての交流が持たれるようになり、その中で戦争中日本に連行された朝鮮の人たちを朝鮮に帰国させるという交渉が成立。しかし、日本側が認めても帰国したのはわずかな人数で、ほとんどの人が日本に残ったのだそうです。
それは、帰国したい者は朝鮮通信使と一緒に帰ってもいいとされたのが、連行から20年も経つ頃だったから。既に日本で生活の基盤を築いていたり、日本で生まれた子供は朝鮮語も話せなかったりで、日本に残る選択をした人が多かったようです。
究極の交流が更なる交流へと深化したわけですね。彼らの子孫は日本人と通婚し、日本人となっていきました。無用な差別を避けるため、先祖が朝鮮人であることを言明することは少なく、記録も残っていないためすっかり同化しています。
今日本は右傾化が進み、嫌韓・嫌中の言説が大っぴらに語られるまでになっていますが、そういった人たちがよく言う「生粋の日本人」とは、一体どこにいるんでしょう。「生粋の日本人」だと言ってる本人だって、大昔からいろんな血をもらっているかもしれません。知らないだけということがあり得ます。
日本の右傾化を変な風潮だと憂いているんですが、ここでまたそれを思い出しました。隣国である日韓双方は、長きにわたり様々に交流しながら歴史を刻んできて、今があると正しく認識されなければと。「嫌」とか「反」とか言っていたら、自分にそのブーメランが帰ってくると思います。
壬辰戦争
壬辰戦争戦闘地
壬辰戦争の戦闘
帰化人
文化交流的な展示
展示コーナーには私が好きな陶磁器たちも。繊細で優美で、むっくりした感じが良いです。ただの壺なんですが、見ていると誰か知り合いが思い浮かぶような、温かみがあります。
こういった物が交流の賜物と言えるのでしょう。わずかな例外を除き、彼らは自分の意志に反して日本に連れて来られたのであり、更に日本から売り飛ばされていった人たちもいたのだから、負の面は否めません。
だけど日本に残る選択をした人たちは、与えられた状況の中で自らの力を発揮して道を切り拓いていったのであり、その人たちが、たとえ生きる糧を得るためであっても、誠心を尽して作った作品があるのだから、そこに作り出された物の美に心を開いてもいいのだと思います。
近現代の韓日外交
木版
釜山殉節図
トンネ殉節図
青磁
平和の鐘
青磁
青磁
沙也可について
いよいよメインの展示である沙也可(金忠善)のコーナーへ。
日本の武具を身につけた沙也可と、朝鮮の武具をまとった金忠善が背中合わせに立っています。劇的な演出ですね。
沙也可とは一体如何なる人物だったのか――。
沙也可はどんな人物だったのか
沙也可の日記や詩を集めた『慕夏堂文集』には、沙也可は元々加藤清正麾下の大将であったが、1592年釜山に上陸後、慶尚道左兵使 朴晋に講和書を送り、「礼儀之国」である朝鮮に帰化したいとの意志を明らかにしたと書かれています。そして朝鮮軍に鳥銃(火縄銃)及び火薬製造の技術を伝授し、鉄砲部隊を編成して日本相手に戦い、戦功を挙げたのだと。
また1597年の蔚山城の戦いでは加藤清正の第一部隊を殲滅するなどし、その功が大きかったため「正憲大夫」という高い地位と「金忠善」の名を賜わったのだとか。
壬辰戦争の時の王 宣祖(ソンジョ)の年代記『宣祖実録』には、功績のあった降倭(日本軍から降った者)として「金忠善」の名が記されています。これが「沙也可」であると結びつけられたのは、18世紀の書物『承政院日記』によってで、それまでは金忠善と沙也可が同一人物だとは考えられていませんでした。
しかし『慕夏堂文集』『宣祖実録』『承政院日記』などの資料を総合すると、降倭の「沙也可」という人物が実在し、彼のまたの名が「金忠善」だったことは間違いないとみられます。
いくつかの疑問点
ただしいくつかの疑問点があります。まずここでの解説パネルにも(沙也可が)「部下3千人を率いて朝鮮に帰化した」とあるのですが、それが可能かどうかです。日本のネットなどでは「部下の3千人と共に投降した」あるいは「5百人と共に・・・」と書かれていたりもします。
壬辰戦争に参加した加藤清正軍の兵士は8千~1万人。3千人を指揮するとしたら相当位の高い武将ということになりますが、そのレベルの者にいなくなった者はいません。5百人を率いた者の中にもいません。つまり沙也可は、3千人あるいは5百人の部下を持っていた可能性はないということです。
大体、釜山に着いた途端に兵士の3分の1が降倭してしまったんだとしたら、加藤清正軍が朝鮮半島を勝ち進めたはずないですよね。
また、仮に3千人の部下がいたとしても、沙也可が朝鮮に帰順するからといって全員従うでしょうか。部下たちにそのような計画を話している段階で、誰かが清正に告げて阻止されることでしょう。そのようなことを考えると、「沙也可が部下3千人を率いて朝鮮に帰化した」というのは有り得ない話です。
実際、『慕夏堂文集』にも「部下3千人」云々という話は書かれていません。どこから「部下の3千人と共に」という話になったのか不明ですが、誰かが付け加えたか、他の記録と混同されたのではないかと思われます。
金忠善
金忠善について
史料
沙也可像
沙也可の活躍
日本語解説
北方の防禦
日本語解説
三乱功臣
日本語解説
日本語解説
日本語解説
家訓
一つの壁には、『慕夏堂文集』から採られた家訓や講和書の言葉が書かれています。なるほど沙也可は儒教思想を強く持っていたのだなとわかります。
しかしそれならば、どうして主君や親きょうだい、妻子を捨てて、朝鮮に帰順したのかが、次なる疑問点です。
この戦いは他国の侵略で、そこには「大義がない」と考えたからと説明され、中には「老いた母をおぶって山に避難する朝鮮の民たちの姿を見て・・・」など、沙也可が心を動かすシーンまで語られることがある(3D映像でもそうなっていた)ようですが、当の沙也可は著作でそのようなことは一切語っていません。
「ただ礼儀之国で聖人の民になろうということだけ」だったと述べています(『慕夏堂文集』巻1、講和書)。だからそれ以外は、後世の人による後付けの解釈なのです。小説やドラマなどでは、作者の想像でエピソードやシーンが描かれますが、それを史実と混同しては困ります。
当時の時代背景を振り返るなら
時代背景を振り返るなら、まず当時日本は戦国時代の末期です。下剋上の世が終わろうとしていましたが、それでもなお覇権と領地をめぐる戦いは続けられており、同じ日本国内の「他国」を攻め滅ぼすことが行われていました。そこには一応の名分はあったとしても、「大義」があったとは言えません。
沙也可は帰化した1592年時点で22歳くらいでしたが、それなら既に何回か戦いに出ているでしょう。武将ならば主君の命に従わなければならないので、「大義」の有る無しによって戦う戦わないを決する自由はありませんでした。つまり沙也可は、日本において「大義」を理由として戦う戦わないを決めたとは考えられません。
なので、朝鮮に来て急に「大義がない」ことを理由にしただろうかということが一点。それに加えて、「大義がないから、戦わない」はわかりますが、「大義がないから、相手側に寝返って戦う」は、理解しにくい思考の流れです。そこを補完するために、「一日も早く侵略戦争を終えたいという願いから、劣勢だった朝鮮に味方した」と言う人もいますが、それこそ沙也可本人が全く述べていない後付けの想像です。
「大義がない」からか?
次に、日本国内でなく朝鮮という他国の侵略だったから、「これはさすがにダメだ。大義がない」と考えたのではないかということですが、考えた可能性はありますが、本人が「大義がない」ことを帰化の理由に挙げていません。なのでそれを投降の一番目の理由に挙げるのは適当ではないと考えます。
よしんば「大義がない」から、祖国や家族より「大義」を取ったんだとしたら、儒教精神はどうなるのでしょう。そのようなこと(主君、家族)より、侵略戦争の不義に対抗する道を選んだとするなら、「老母をおぶって・・・」等の儒教精神あふれる姿に心動かされたというのと矛盾します。
もちろん「老母をおぶって・・・」等は後世の創作ですが、沙也可が儒教精神を重んじていたなら、恩ある主君を裏切り、孝養を尽くすべき父祖を捨てることと、自分の選択(「礼儀之国で聖人の民になろう」)とをどうやって均衡を取ったのだろうという疑問が生じます。
自分にも老母がいたのに、祖国ごと裏切っているのですから(後述)。儒教の教えに背くことをしながら、儒教の国の民になろうとするというのは論理的に成り立たないのではないでしょうか。
日本に残された家族
『慕夏堂文集』には、日本でのことはあまり書かれていませんが、それでも朝鮮に来た時点で、両親(祖父母も?)がおり、沙也可は7人きょうだいの末っ子で、妻と数人の子供がいたと書かれています。もし「部下3千人を率いた武将」だったとしたら、身元がバレているので、この人たちは皆殺しになりますね。
一族郎党を皆殺しにしてもいいとは、儒教じゃなくても考えないと思うので、やっぱり沙也可は多くの部下を持つ武将ではなかったのでしょう。そして「沙也可」という、今なら女性のように聞こえる偽名を名乗ることで、身バレを防いだのではないかと考えられます。
沙也可の残した言葉からして、儒教の教えに惹かれていたというのは確かでしょうけど、降倭した理由はそれだけではない気がします。なぜなら、儒教精神あるいは大義のために降倭したというなら、恩ある主君と家族を裏切るという不義不忠を説明できないからです。沙也可が朝鮮軍に投降した理由の中で、公に言えるものが「礼儀之国で聖人の民になろう」だけだったのではないでしょうか。
清とも戦った
礼儀之国だから
家訓
郷約
壬辰戦争の時の船
火縄銃
金忠善像
金忠善の子孫
司馬遼太郎など
司馬遼太郎の「韓のくに紀行」や神坂次郎の小説「海の伽耶琴」などを通じて、日本でも沙也可の存在が知られるようになり、ここ友鹿洞まで来る人もいますが、依然として沙也可の正体は謎に包まれています。
「沙也可」(サヤカ)の語源を「雑賀」であるとし、鉄砲部隊を率いていた鈴木孫市郎であると主張する人もいれば、加藤清正麾下の与力「左衛門」(サエモン)であったのではないかという人もいます。
日本でよく聞くのは雑賀衆説ですが、ガイドの朴さんは「私はそれは違うんじゃないかと思う」と言っていました。しかし雑賀衆のいた和歌山県と友好関係を結び、和歌山県に沙也可の石碑も建てられているようです。先ほどの3D映像を観る限り、そこに日本の大物政治家も関わっているようで、うーんという感じですね。
もっと調べればわかることも・・・
まだちゃんと解明されておらず、「本当に雑賀衆?」という状況で、石碑などが建てられて既成事実化していくのは果たして良いことなのでしょうか? 降倭は沙也可だけでなく、数百から一説には1万人にも上ったという話まであります。『朝鮮王朝実録』などを調べれば、もっと降倭の実体を知ることができるんではないでしょうか。
1万人は大袈裟だろうと思いますが、壬辰戦争以降の乱の際に、沙也可は150人の降倭を率いて参戦したという記録があるので、少なくとも数百人単位で日本人が朝鮮に帰順し、朝鮮軍の一部として戦い、その後も朝鮮で暮らした計算になります。日本に来た朝鮮人同様、彼らは無用な差別を避けるため元日本人であると明かしませんでした。
捨てるべきは差別感情とわだかまり
しかしそれだけの人数ですから、痕跡がどこかに残っていてもおかしくありません。直系の子孫たちだけが先祖が降倭であったことを知っているというケースもあるかもしれません。
ただしこのような謎が解け、実体が解明されるためには、無用な差別感情、互いの国に対するわだかまりが無くなる必要があるかと思います。降倭の血が流れているということで、侮辱されたり差別的な扱いを受けるようであれば、祖先を明かそうとしなくなるからです。そうしているうちに更に記憶や記録が失われる可能性もあります。
反知性的としか言いようのない「反日」または「嫌韓」を捨ててこそ、歴史分野、特に交流史の研究が進み、お互いの国にとって益することがあるのではないかと思います。
『承政院日記』の記述で
日省録
朝鮮王朝実録
史料
日本の中の「沙也可」
司馬遼太郎らによって
金忠善の実体
歴史教科書などにも
二階には
二階に上がると、雛人形など日本の文化を紹介する物や、韓国の玩具などが展示されていました。交流スペースを兼ねているようです。
展示パネルのほとんどが和歌山県関係で、沙也可の出身地の「和歌山県推し」がかなり強く、少々心配になってきます。
政治と観光は「よっしゃ、それでいこう。ウィンウィンだ!」って感じですかね。
そりゃあ、韓国から和歌山に行く人が増え、和歌山からここに来る人が増えたら観光的にはいいですよ。貴志川駅の「たま駅長」(←三毛猫です)の写真まで展示していて、見た目は「ゆる平和」。
だけど歴史という観点から見ると、商業的に観光的にOKだからOKということにはなりません。そのせいで歴史が歪曲されたら困ります。「友好」はいいけれど、ちゃんと調べて研究して正しく知ることを後回しにしないでほしいと思います。
日本遺物展示
和歌山から出土した韓国式土器
和歌山の古墳
古墳から出土した馬冑は韓国と類似
雑賀衆
古代からの交流
展示室
達城韓日友好館入口
鹿洞書院
朴さんと一緒に外に出て、鹿洞書院へ。
鹿洞書院の向かって右手にあるのが金忠善を祀る祠堂で、書院は儒教の私設学問所です。
最初に見た時閉まっていた向陽門は、今は開いているけれど、そこは通ってはいけないそう。子孫が祠堂で年二回行事をする時以外は誰も通ってはいけないということでした。そこで脇にある門から中へ。儒教って、ほんと先祖や目上の人を大切にするんですね。何から何まで徹底しているなと思いました。
金忠善のお墓は、この裏手の山の中腹にあるそうです。一般の人も見に行ってもいいそうですが、女性一人は危ないと朴さんに止められました。片道半時間以上かかるし、山道だから何かと危険だということで。私みたいなヘタレには無理かもですね。
書院の建物が新しいのは、20年ほど前にこの村出身の人が大臣になったからだと聞きました。韓国では、一族の誰かが出世すると、親戚縁者が皆出世できるそうで、その人が出た村は途端に公共事業で整備されるそうです。それで達城韓日友好館の前の道路もきれいに舗装され、書院や友好館なども新築されたということです。まぁ・・・いいことなんでしょうね。ここ友鹿洞にとっては☆
初めて知ること多々
当然ながら、ここに来て解説パネルを読んだり、朴さんから聞いたりして初めて知ることは多く、日本で本などで調べるのでは限界があるなと感じました。沙也可に関して詳しく書かれた本は無いに等しく、ネットにはコピペしたような同じ内容ばかりが表示されます。
初めて知ったことを思い出せる範囲で羅列すると、下のようになります。⇒は私のメモ。
沙也可を見込んだ晋州牧使(金時敏ではない)が娘を嫁がせ、沙也可は5男をもうけた(女子もいたようだが記録されていない)。⇒晋州城の戦いに参加していた可能性。
5男はそれぞれ官位につくほど出世した。沙也可と共に戦いにも出ている。
沙也可は「金海金氏」の姓を賜わり、その始祖となった。⇒これは朝鮮社会では非常に光栄なこと。それだけの功績と忠誠心が認められたのは確かだろう。
慶州や蔚山で降倭を率いて日本軍と戦った。⇒加藤清正が飢え死にしそうになった蔚山城の籠城戦にも出陣していた。
光海君によって正憲大夫の官位が授けられた。⇒その後光海君が失脚した時、立場悪くなったか。
丁酉再乱が終わってからも、李适(イクァル)の反乱、丁卯胡乱、丙子胡乱などに、自ら志願して参戦。⇒丁卯胡乱と丙子胡乱は後金が攻めてきたことに対する防衛戦だが、李适の反乱は仁祖に対するクーデター。
朝鮮では辺境を安定させるために、倭寇を宥め朝鮮に定住することを促す政策を実施したこともあった。対馬から派遣された者や、生活苦のため自ら帰化した者など、沙也可以外にも多くの日本人が朝鮮に帰化した。⇒沙也可は特異ケースはなかった。沙也可の選択はチョイスとしてあり得た。
沙也可は晩年、家訓や郷約を作って住民の教育に努めた。⇒日本から来た時点で文字も読めたようだし、元々一定の教育を受けていたのだろう。漢文ができれば朝鮮でも通用する。したがって沙也可は一兵卒というよりは、身分ある武家の出であった可能性が高い。
始祖が降倭であるとバレると不利益を被るので、数十年前まで子孫は沙也可が日本人であったことを言わなかった。今も日韓関係が悪くなると肩身の狭い思いをする。
友鹿洞には働き口がないので、皆都会に出て行ってしまい、今は子孫でここに残る人はほとんどいない。⇒司馬遼太郎が訪れた40年前とは様変わりしているよう。
鹿洞書院
向陽門
鹿洞書院
脇の門から入る
鹿洞書院
お墓のある山
金忠善を祀る祠堂
友鹿洞
バス停で
たくさん説明してくださった朴さんにお礼を言ってバス停へ。朴さんもバスの時刻を気にしてガイドしてくれてたようです。
バスは本数が少ないし、帰りはタクシーを拾えそうにもない(車もほとんど通らない;;)ですもんね。ありがとうございます。
朴さん以外にも何人か日本語ガイドさんがいらっしゃるので、達城韓日友好館のHPからメールしても良いかと思います。聞きたいことを質問できるし、とっても勉強になりました (#^^#)
沙也可は何者ぞ?
で結局、沙也可は何者なのか?ということですが、現在のところ何者であるかはわかりません。雑賀衆でなくても、鉄砲隊の兵士ならばある程度火縄銃や火薬の取り扱いを習得していたでしょうし、身バレを防ごうとしていたなら、名乗った「沙也可」が本名や出自を示すヒントになるだろうか?と首をかしげてしまいます。
私なら、自分が属していない隊の名を挙げますね。例えば小西隊の兵士だったら「加藤清正隊から来ました。鉄砲隊を率いていたので火縄銃を扱う技術があります。礼儀之国である貴国を以前から尊敬し、この国の民になりたくて参りました」と。ひねくれ者の考えですが。しかし実際に加藤隊にいたかも不明なので、それも含めてわからないとしか言いようがありません。
そんな中で、若干の私見というか、私の想像を述べさせてもらうなら、沙也可は「生きるため」に朝鮮軍へ投降したのではないでしょうか。「朝鮮は礼儀之国だ」というのもあった(「大義がない」については本人が言ってないので保留)でしょうけれど、それ以上に切迫した理由があったと考えるのが、人の本性に照らせば自然だからです。
どんなパターンが考えられる?
ではどんなパターンが考えられるでしょう? 「二度と日本に還れない」と覚悟するしかない状況で、例えば「上から睨まれていて、このままでは死ぬ目に追いやられることが確実」「ひどい目に遭って殺されそうだ」「犬死にさせられる」「身内に殺される危険」などの条件が加わった場合、人が「朝鮮で生きていく道」を選ぶことは理解できることです。
その際には、「死なないため」というネガティブな動機だけでなく、「礼儀之国で聖人の民になろう」というポジティブな動機もあったことでしょう。儒教精神に惹かれていたのにプラスして、そういう国であれば、元々敵であっても、投降して礼を尽せば生きる道が拓けると期待できるからです。
ただの想像ですけど、自分なりに納得する答えをもって帰りたいと思っていたので、来た甲斐あったと言えますかね♪
友鹿洞
達城韓日友好館
大邱中心部に戻って
大邱地下鉄放火事件
市内中心部に戻って地下鉄「中央路駅」から出ようとすると、真っ黒になった柱が。近寄って見てみると、地下鉄火災事件の追悼のために残されたものでした。
あほな私はすっかり忘れていたけれど、2003年2月18日、放火によって火災が起こり、乗務員の間違いによって192人もの命が奪われた事件があったのがこの駅なんですね。
「大邱地下鉄放火事件」あるいは「2.18大邱地下鉄火災惨事」と呼んでいるようです。忘れていて申し訳なかったと思いながら構内に設けられた「惨事記憶空間」を見学。惨事のあったその場所にこのような施設があることによって、事件からの教訓が一層身に染みて感じられます。
惨事記憶空間
惨事記憶空間
大邱地下鉄放火事件
大邱地下鉄放火事件
お昼はタロクッパ
この辺りでお昼にしようと、大邱名物のタロクッパ店へ。タロクッパとは、ご飯と知るものが別(タロ)に出てくる定食。
そこに、牛の血を固めたスンジというものを皿いっぱいくれて、これは食べ放題って言うんだけど、牛の血ぃ。。(@_@;)
スンジの味は甘くない寒天でした。鉄分とか、女性に必要な栄養はあるんだろうなぁ。とりあえず美味しくいただいてエネルギーチャージ (^^♪
タロクッパ店
タロクッパ
スンジ
中央路のコンビニ
大邱近代歴史館
それでは先日見逃した大邱近代歴史館へ。建物は日本植民地時代の建造物 。
日本が朝鮮を支配した1910~1945年のことを「日本植民地時代」と冷静に呼ぶこともあれば、「日本統治時代」「日帝時代」「日帝強占期」と呼ぶ人もいます。呼称の問題ですが、そう呼ぶ際に込められている意味や感情を思うと、気楽に選べない用語です。最近まで私は「日帝時代」を使っていたんですが、今後はより中立的な「日本植民地時代」か「日本統治時代」を使おうかと。何であれ、平和に寄与する方を選びたいと思うから。
こちらの建物は、1932年に朝鮮殖産銀行大邱支店として建てられ、1954年からは韓国産業銀行大邱支店として使われていたもので、大邱市の有形文化財第49号に指定されているそうです。中に入ると、その頃の日本の雰囲気が押し寄せてきます。私はこの時代の建築物が結構好きなので飽きずに眺めていられます。特に素敵なのは、金庫室や天井、壁の細かな意匠でしょうか。←ほとんど全部ですね (;^_^A
有形文化財
有形文化財
館内
金庫室
金庫室内の展示
朝鮮殖産銀行
大邱近代歴史館
近代文化遺産
1900年代初頭の慶尚監営
うむ!? これを見るために来させてもらったのかと思うものがありました。1900年代初頭の慶尚監営の模型です。
こういう規模で、建物はこんな風に配置されていたんですね。やっとイメージが掴めました。今公園になっているのは一部で、もっと広く、核心となる建物だけが復元されていることがわかります。
その核心となる建物の前の庭が、どうやらクリスチャンを「尋問」した所ですね。「尋問」とは棄教させるための拷問だったわけですけど。ガラスケースの上部がなければ、もっとちゃんと写真撮れるのに残念。
朝鮮時代末期の大邱、日本植民地時代の大邱、6.25(朝鮮戦争)と大邱、2.28民主運動と大邱など、見るべき展示が多くありました。歴史的事件を「大邱」という地域性と合わせて考察するのも有益ですね。
慶尚監営の模型
大邱駅
大邱の城郭
国債発行の地
爆弾事件で死刑に
6.25(朝鮮戦争)と大邱
2.28民主運動と大邱
展示室
教会めぐり
周辺地図を見ていたら、
なんか教会が多いよ!
ということで教会めぐりをすることに。
歩いて5分もしないうちに見えてくる大きな十字架は、大邱中部教会のもの。ちょっとしたホテルかオフィスビルみたいですが、壁にはヨハネによる福音書8章32節が刻まれています。
しばらく行くと、漢字で「大邱教会」と書かれた所が。バックに見える十字架のためにキリスト教の教会かと思ってしまいましたが、天理教の教会でした。日本発祥の天理教が韓国でとても盛んだと聞いたことがありますが、本当みたいです。
ヨハネによる福音書
大邱中部教会
天理教の教会
大邱教会
カトリックの聖堂
天理教の教会の背後に覗いていたのは、カトリック教会の十字架。テアン聖堂と書かれています。お隣さんなんですね。
韓国では、カトリック信徒は「聖堂」、プロテスタント信徒は「教会」に通います。日本ではどちらも「教会」と呼ぶので少し違いがありますね。
テアン聖堂の入口には、慶尚監営での殉教や迫害のことが書かれた解説板と石碑がありました。
殉教福者記念碑
解説板
迫害について
殉教聖地の略図
聖堂内
聖堂前にいる人たちに挨拶して中へ。
モダンな外観とは違う、木を多用した落ち着いた雰囲気です。
自分の内側に深く入って行ける感じがします。
祭壇に描かれているのは「最後の晩餐」ですね。
聖堂内
聖堂内
聖堂内
テアン聖堂
もう一つ隣も教会
カトリック聖堂の付属建物かと思いきや、その隣も教会でした。プロテスタントの一派聖潔教の教会で、大邱第一聖潔教会。聖潔教は、日本でいうホーリネス派のことみたいです。
それにしても3つの教会が横並びしているって、どういう状況なんでしょ。隣組みたいに連携して何かすることもあるのかな。町内会とか・・・、ま、うまくやっているんでしょうね☆
大邱第一聖潔教会
大邱第一聖潔教会
観徳亭殉教記念館
地下鉄を一駅乗って半月堂駅の観徳亭殉教記念館へ。朝鮮時代のカトリック殉教者を顕彰する記念館です。
駅からすぐのこの立地に殉教記念館を建てるってすごい。キリスト教信仰に対する社会的コンセンサスがないと不可能ですよね。
お金だけ積んでもできないというか。巨大で立派な、そしてとても凝った建物なので、お金も相当かかったと思いますけど。
日本では到底難しいだろうなと、まずは外から見上げます。壁のレリーフは、殉教者たちの首を携えて天使が天国に昇っていく様子でしょうか。朝鮮風なのが羨ましいです。その土地にキリスト教が根付くと、こういった独特のキリスト教美術が生まれてくるんですよね。日本にもあることはありますが。
ちなみに、ここも小道を挟んだお向かいさんが大邱南山教会というプロテスタント教会。そちらも負けず劣らず大きな建物で、建物の大きさで信仰心を計ることはできないけれど、やっぱり韓国人の特徴の一つがこういったところに表れているように感じます。
「観徳亭」とは
「観徳亭」(カンドクチョン)とは朝鮮時代に武科(武官を選抜する試験)を行う試験場のことであり、訓練場も併設されていたのですが、その訓練場の近くに重罪人の処刑場が設けられていたそうです。そこで乙亥迫害(1815年)、丁亥迫害(1827年)、己亥迫害(1839年)、丙寅迫害(1866年)にわたり合わせて25人のカトリック信者が信仰のゆえに処刑されました。
重罪人の処刑場なので、キリスト教徒ではないですが、東学の創設者である崔済愚が処刑されたのもこの場所だったということです。
この殉教記念館は、韓国カトリック伝来200周年を記念したカトリック大邱大教区の聖地開発事業によって建立されたもの。処刑場として考証された土地512.40㎡を確保した後、1985年から1990年までの工事期間を経て建設され、1991年5月に開館しました。
殉教者のレリーフ
大邱南山教会
楼閣
中に入ってみましたら、地下1階から地上3階まであり、2階の資料展示室、3階の教区展示室がみごたえがありました。
残念ながら館内の撮影は不可ということで、写真はありませんが、公式サイト(
http://www.daegusaint.org/
)に様々な情報が載っているので良かったら♪
大邱の殉教者は、ここ観徳亭25人、慶尚監営の牢にいた31人で合計56人ですかね。記録に残っている人だけですけど。
資料によると、観徳亭で殉教した人たちのうち、1人が聖人、11人が福者に上げられているとのこと。その他の人についてはあまり情報がないのかもしれないですね。列聖・列福されるには、その人の出自や生前の信仰、殉教の様子などがある程度わかっていないと申請するのが難しいと聞きます。
天国に上げられていれば、地上での顕彰とかは関係ないですね☆彡
屋上
外から見た時も気になったのですが、建物の最上階に韓屋の楼閣が設けられていて、3階から出られるようになっていました。
館内ではないから写真撮ってもいいだろうと思いパチリパチリ。
吹き抜ける風も心地よく眺めもいいのですが、何より素敵なのが
韓屋に描かれているキリスト教モチーフ
。ぶどうとかハトとか、主が十字架を負っておられたりとか。軒先の白いハトは聖霊を表しているようですね。もう見ているだけで幸せ。こういう所、日本にもあったらのにいいなぁ (*'▽')
楼閣
キリスト教モチーフ
ぶどう
聖霊
大邱カトリック大学
せっかく南山の端っこにいるのだからと、「南山100年 郷愁の道」まで足を延ばしてみることにしました。道に沿ってカトリック系の学校や修道院、聖堂などがあるようです。
途中通っていく界隈は日本植民地時代に多くの日本人が住んでいた所らしく、古い建物にその痕跡が見受けられました。日本の昭和レトロみたいな感じで、どこか懐かしくなる雰囲気です。
こちらは大邱カトリック大学。校門には「大邱管区大神学院」と書かれています。構内に有形文化財に指定されている聖ユスティノ神学校があるので入りましょう。お邪魔します~♪
道案内
広いキャンパス
大邱カトリック大学
大邱カトリック大学
聖ユスティノ神学校
こちらが1914年に建設された聖ユスティノ神学校。
カトリック大邱教区の初代教区長ドマンジュ司教が、司祭養成のために建てました。
南山は大邱カトリックの発祥地と言われたりもするそうです。
カトリック系の学校が合併し、校名変更して、2000年に大邱カトリック大学となりました。いくつもの学部がある総合大学ですが、神学部も健在。今も司祭を輩出しているんですね。
解説板
日本語解説
聖ユスティノ神学校
道案内
南山100年 郷愁の道
ゆるく長い坂道は、長く歩いていると段々疲れてくるけれど、この壁面を眺めながら登ると自然と前に進めます。
一つひとつ別の写真がはめこまれ、大邱の歴史を語っているのですが、全てキリスト教とその福祉活動に関するもの。勉強になりますわ。
中には日本植民地時代の「倭館」で女学生たちが刺繡の実習をしている写真もあります。
南山100年 郷愁の道
桂山聖堂全景
聖母堂全景
観徳亭殉教記念館
修道女たち
修道会125周年
ベアトリクス修道女
倭館女学校家事時間
教皇フランシスコ
白百合保育園
シャルトル聖パオロ修道院
修道院
シャルトル聖パオロ修道院
しばらく歩くと、壁画にもあったシャルトル聖パオロ修道院。直訳すると「修女院」だから、シスターだけがいる修道院ですね。
聖母像の後ろにある建物はコミネ館といい、大邱広域市文化財資料第24号に指定されているそうです。
大邱の南山をこういった近代建築、それもキリスト教関係のものを見て歩くというのも良いですね。日本人が好みそうなコースです。歩いているうちに、ここが韓国かヨーロッパの古い町かわからなくなりそうですけど。
さっきも出てきたドマンジュ司教が、孤児や老人の面倒を見たり、医療奉仕をしたりする修道女を派遣してくれるようフランスのシャルトル聖パウロ修道女会に要請したのが1912年。修道女の派遣が決まったので建物を建て始め、1915年に完成したのだとか。
石の階段の手すりや窓枠など、ディテールまで神経が払われていて、「珠玉」という言葉が浮かびます。修道女の方々への敬意が込められているように感じます。
シャルトル聖パオロ修道院
解説板
コミネ館
コミネ館
聖母堂へ
では案内図に「聖母堂」と書かれている場所へ。名前からしてカトリックの聖地なんだろうなと想像されますが、どんな所なのかガイドブックには書かれておらず。
入口には「天主教大邱大教区庁」と書かれています。おおう、大教区庁に入れちゃうんだ。
近くに学校か保育園があるのか、小さめの子供たちを連れた親子連れが多くて、緑のある公園みたい。大教区庁だからといって恐れ多いということはなく、割と気楽に入って行ける感じです(←いいのか?
門を入った右手に「山上の垂訓」(こちらでは「山上説教」)の碑があり、十字架の道行が続いています。その先に聖母堂があるようですね。
天主教大邱大教区庁
山上の垂訓
「平和が皆さんと共に」
十字架の道行
聖母堂
緑を抜けて広い芝生に出ると、
わぁ、聖母堂!
すごい、素敵、なんだろう、ここ。
子どもみたいな感想を抱いて近づいていくと、ルルドだということがわかりました。それで聖母堂なんですね。
1917年7月から着工して1918年8月15日に完成したそうです。8月15日は聖母の日だからそれに合わせたんでしょうね。手掛けたのはやはりドマンジュ司教。
聖母堂の正面上部には「1911 EXVOTO IMMACULATAE CONCEPTIONI 1918」と白く書かれています。1911は大邱教区ができた年、1918はドマンジュ司教が教区のために求めた3つの願いがすべて叶えられ年なのだとか。「EXVOTO IMMACULATAE CONCEPTIONI」は「原罪なく受胎された聖母に捧げた誓願によって」という意味だそう。すべて叶えられたことを感謝して奉献されたものなんですね。
花崗岩の基盤の上に黒レンガで擁壁を造り、壁面を赤レンガで覆った聖母堂は、何とも美しいバランスと色調。各部の構成が均衡が取れているので見ていると安心できるというか、脳波が整ってくる気がします。瞑想するにも休むにも、何よりお祈りするのに最高だろうと思います。
そのためか、広い敷地のあちこちで人々がそれぞれに祈っていました。100人くらいですかね。鳥の音が聞こえてきて、静かに風がそよいでいて、ちょっとした天国です。皆さんいい時間を持たれていますね (≧▽≦)
解説板
日本語
緑の広場
聖母堂
ルルドの聖母
十字架の道行
十字架の道行
十字架の道行
南山天主教会
聖母堂を後にして坂道の頂上を過ぎると、南山天主教会が。ここは「教会」なんですね。長崎にある教会堂に似ています。
こちらにも三々五々人が来ていて、下校時刻くらいだからか、人が多いところだなと思いました。
一帯がカトリックなので、信者さんはいいけど、他の人はどうだろう?と思いましたが、建物も街もいい雰囲気だから好意的には受け止められているだろうなと。
南山天主教会
2.28民主運動記念会館
ここまで来ちゃうと南山を越えているので、再び半月堂に戻るよりは地下鉄「明徳駅」に抜けるのが良さそう。
そう思ってよいせこらせと歩いていたら、2.28民主運動記念会館がありました。もう足疲れまくってるけど、明日は帰るだけだから寄りましょうか。
朝から友鹿洞に行って、一日の行程としてはもう十分なんだけど、これも与えられた機会かなということで。
だけど大邱はどこに行っても「民主化運動」「市民革命」で、少々食傷気味。初日からそうだから、申し訳ないんだけど、正直言うと興味津々とは言いにくいです。
わがままでごめんなさい、神様。涙
2.28民主運動
2.28民主運動
2.28民主運動記念会館
館内図
2.28民主運動記念会館内
1階ロビーに入ると左手に展示室が。「民主運動の門を開ける」と書いてあります。モニュメントはトーチ。
2.28民主運動とは、1960年2月28日に大邱市内の学生たちが自由党政権の独裁に対抗するために展開した運動のこと。「2.28学生義挙」とも呼ばれます。
この運動は、その年の3月15日に起きた馬山3・15義拳(李承晩大統領不正選挙に抗議するために馬山で起きたデモ)や、4月19日に起きた四月革命(同じく李承晩大統領不正選挙に抗議するためにソウルなどで起きた大規模なデモ)の導火線になったともされています。
順路に沿って足元の時計が進み、時間軸と共に展開していくので、緊迫感ある展示となっています。一見の価値ありですね。特に学生たちの自主的に起こした運動だったということに驚かないではいられません。いつも固定観念のない、まっすぐな若い人たちが新しい時代の扉を開いていくんだなと。
体を(心も)引きずるようにして見学してしまったけれど、学ばせていただきました。これも大邱の欠くことができない要素だから教えてもらったんでしょうね。感謝です。
展示室
様々な市民革命
2.28民主運動
時計
展示室
順路
各地に飛び火
2.28民主運動関連地
4.19革命震源地
地下鉄に乗って半月堂(パノルダン)に戻り、明朝乗る空港行きバスのチェックを。
バス停に時刻表がなく、ルートだけ表示されているのが???だったのですが、よく見ると二次元コードが付いていて、スマホでそれを読み取れば時刻表が出てくるようです。
刻一刻と交通事情は変わるので、それが正確なんですね。大邱交通のサイトにバス停番号を入力してもいいみたい。
なーんだ!
4日目にして知る真実。
早よ知りたかったわ。明日帰るし。スマホで調べるとバスは6時台から10分ごとに出ているもよう。空港まで1本だし楽勝ですね(たぶん)。
何気なくバス停脇を見たら、「4.19革命震源地」と刻まれた石碑がありました。四月革命はここから始まったという意味ですね。ようやく流れが理解できてきました。これから韓国の他の所で民主運動の史跡を見たら、きっとここが思い浮かぶことでしょう。全体像がよく見えるよう、今回は大邱のピースをはめさせてもらったようです☆
バス停
半月堂
バス停
バス路線
夕飯~
長かった一日が終わり、宿の向かいの店で夕飯を。今日までなんで来なかったんだろうと後悔するくらい美味しくてヘルシー。
店主は日本人がどうして自分の店に来たのか知りたがり、私が拙い韓国語で答えると目を丸くしていました。韓国に来る日本人は今や年間数百万人に上るはずだけど、まだ珍しがってもらえる所もあるんですね。そういう街の方が人が親切で過ごしやすかったりします。
これまでソウルに飛んでソウルから帰っていたけど、地方空港に飛んでそこから少々レアな所を回るなんてこと・・・、アリだな絶対アリだなと、まだ帰っていないくせに次の旅行が浮かんできてしまう夕べなのでした。
食堂
料理
店内
半月堂
歴史を使ったミスリード
ミスリードとは、「人を誤った道へと導く」という意味。ミステリー小説などでは、読者をミスリードして「この人が犯人かな~」と思わせておいて、最後にどんでん返しを仕組むということがみられます。
それは愉悦のためのミスリードで、うまくミスリードされたら読者は悔しがりながらも喜びますが、歴史を使ったミスリードはそうはいきません。
例えば、沙也可。朝鮮に降ってそちら側として戦ったわけですが、これを今の日韓関係に当てはめて、ミスリードする話を仕立ててはいけないでしょう。「沙也可が朝鮮の精神性に惹かれて降ったように、今もそうすべきだ」「韓国が精神的に優れていることは沙也可の時から明らかだ」と日本人に言ったら、ブーイングを受けると思います。
しかしそれをちょっと変えて、「昔、沙也可という人物がいました。日本と朝鮮が戦争をしていた時だったのですが、朝鮮の精神的なものに惹かれて、なんと朝鮮に降ったのです。祖国より大義を取ったということは素晴らしいことです。そんな素晴らしい日本人がいたということです。今韓国は世界でも指折りのキリスト教が盛んな国です。日本はそれほどではありません。どうしてでしょう?日本人は再び沙也可のように、韓国の教会に学ぶべきではないでしょうか」と言ったらどうでしょうか。
一般の人はそんな話にあまり耳を傾けないでしょう。しかし韓国でキリスト教が隆盛であることや、個々人がとても熱心な信仰を持っていることを知っているクリスチャンは、なるほどと思う可能性があります。「そうか、沙也可のように・・・」と。
しかしここにミスリードが隠れています。なぜなら沙也可が本当に朝鮮の精神的なものに憧れて、それだけを理由に降倭したか不明だからです。私は「生きるため」だったのではないか、少なくとその要素はあっただろうと考えています。もしそうだったとすれば、話は180度変わります。「沙也可のようにすること」は、すなわち「生きるため」に最善を尽くすことになるからです。
政治的にであれ宗教的にであれ、ミスリードすることで自分の意見に人を導いてはいけません。それは小説などの仕掛けとは違う、苦い思いをもたらすミスリードです。
もし何か歴史的な事柄をエビデンスに使って説得力を持たせようとするのであれば、史実に照らし合わせた解釈に基づいてすべきです。歴史を歪曲して人を惑わしてはいけないし、自説に反する証拠を無視して自分の考える方向に強引にもっていくのは不誠実です。
「ロマン」として自分の想像を交えて、まるでそれが事実であるかのように語る、そんなミスリードもありますが、やり方が巧妙だと詐欺師のようです。「騙される方が悪い」という言い方がありますが、やはり悪いのは騙す方、自分に有利にミスリードする方です。
幸いなことに、私が「例えば、沙也可。」と書いたところから下はただの想像で、このような話を実際に聞いたことはありません。だけれどこれに類似した話を、今後どこかで誰かから聞くかもしれません。
そんな時に「歴史を使ったミスリード」のことを思い出そうと思います。自戒も込めつつ、そんな話を聞きたくないという願いも込めて書きました。
今回も長くて長い、無用の長物みたいな旅行記になってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございます。安全と恵みを守ってくださった主に栄光を (*ˊᵕˋ*)
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