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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 韓のくに紀行~春 Ⅱ


朝はセルフで


朝はセルフで。共用キッチンに用意されている卵とパンを焼き、コーヒー紅茶オレンジジュースなどから好きなものを選んで席へ。

今日はどんなふうに回ろうかなと思いながらモグモグ。若いアルバイトスタッフがちょうどいい距離感で助けてくれるので安心して過ごせます。いい宿みたいで良かったな♪



高速バスターミナル


今日は高速バスで慶州へ行く予定。大邱の高速バスは以前は乗り場が分かれていてわかりにくかったようですが、昨年東大邱に巨大な高速バスターミナルが誕生して便利に。

なんだか空港みたいです。窓口でチケットを買うと、何階の何番ホーム出発と記載されていて、そこに行ってしばらく待ち、時刻になると改札開始。

一応人にも確認できるので乗り間違いもなさそうです。英語表記が少ないですが、ユニバーサル仕様になってきていますね。旅行者には有り難い限り。特に私みたいなソロ旅行者は、困ったときに相談できる相手もなくて基本ドキドキしているので (;^_^A



乗り場

乗り場表示

チケット

慶州への車窓


慶州までは高速バスの一般席(豪華じゃないやつ)で50分。値段は560円ほどです。

今回は、今まで行ったことがない南東部に行きたかったので、ソウルではなく大邱を拠点にしたのですが、いい選択だったかもしれません。

車窓に流れる風景は、あっという間に田舎に。慶州に近づけば近づくほど水田が多くなってきます。水の多い肥沃な地だから、古くから栄えたんでしょうね。慶州は三国時代に新羅(シルラ)が都を置いた所です。

古代の日本は任那に日本府を置いたり、百済と同盟を結んだりしていたから、新羅は敵国扱いで、今も多くの日本人が「新羅」を「シラギ」と読んだりしますけどね。「シラギ」は、百済人が新羅(城)のことを呼んだ名称と考えられています。



車窓より

一般席


おやつ

仏国寺


慶州のバスターミナルで乗り換えて、今度は仏国寺行きの市内バスへ。バスは各駅停車なのでのんびり40分かけて仏国寺前に到着。

外国人が3割くらいでしょうか。海外からの旅行客に人気があるようです。皆ツアーでもなく市内バス乗って仏国寺行くなんて、偉いなと思っちゃう。外国人にはハードル低くないと思うんですけどね。

停留所で下りると、道の一方が商街市場(大きなマーケット)で、もう一方の山全体が仏国寺。とりあえずインフォメーションセンターに行って地図をもらいましたが、仏国寺の広さに驚倒でした。というか、教えられた道がわからず迷いました。

15分ほど迷ってたどり着いたのが、「仏国寺」と書かれた門。ここから入場料払って入るんですが、周辺全部が境内なんだということを知りました。そしてそこを公園のようにいろんな方々(主に高齢者)が集会場として利用していることを。つまり、「仏国寺」停留所で下りても、そこから10分は歩くよということです☆



商街市場

入場ゲートまで遠い

周辺全部が境内

境内広っ


本格的に境内に入っても、そこからも池を横目にしばらく進み、天王像が4体睨みをきかす天王門を通り、ゆるい坂道を登って行きます。幸い足元は平坦だけど、距離は結構あるかなぁ。

だけど最後の橋を渡ると、どこか神聖な気持ちになります。高い木々に囲まれて、鳥のさえずりを聴きながら歩いているうちに心が整えられるみたいで。



参道

天王門

四天王像

四天王像

天王門

続く道

仏国寺博物館

小川

青雲橋・白雲橋


こちらが「仏国寺と言えば!」という風景、青雲橋と白雲橋です。

紫霞門に向かって架けられている、上が白雲橋で、踊り場をはさんだ下が青雲橋。

仏国寺は焼失しているのですが、石で造られたこちらの橋は創建当時(751年)からのものと伝えられ、国宝第23号に指定されています。横から見るとアーチがため息が出るほど素晴らしく、8世紀の工人すご!となります。

向かって左に行くと、もう少し小ぶりな石橋が架けられていて、こちらの名前は蓮華橋と七宝橋。小ぶりだけどこちらも国宝第22号。仏国寺自体が世界文化遺産だけど、内部は国宝と宝物だらけですね。「だらけ」って語弊があるけど (^^;


仏国寺はどうして燃えたのか?


さて仏国寺は、最盛期の8世紀には約60棟の木造建築を数えたといいますが、今残っているのは石橋などの石造物と金銅仏像のみ。解説板を読むと、文禄・慶長の役(=朝鮮出兵。こちらでは「壬辰倭乱」イムジンウェランという)の時に燃えたと書かれているのですが、日本軍によって燃やされたと解釈する韓国人が多いようです。

しかし日本軍によって「燃やされた」か、それ以外の理由で「燃えた」か、どちらであるかはわかっておらず、仏国寺を占拠した日本軍がわざわざ宿所となる建物を燃やしたとは考えにくいです。壬辰倭乱で漢城(今のソウル)を朝鮮王朝が撤退していくとき、占拠した日本軍の役に立たないよう、民衆によって市内に火が放たれたのと同様に、仏国寺も退去していく人々によって燃やされたのではないかと、私は考えます。

だから金銅仏像も残ったのではないかと。もし日本軍が朝鮮人の心の拠り所を奪ってやろうと寺に火をつけたなら、仏像も燃やしたでしょうけれど、重要な仏像は残っているのですから。それは仏国寺を去っていく人々(僧侶)にとって、たとえ敵の手に渡ることがあったとしても火をつけられないものだったからではないでしょうか。



仏国寺総合案内

青雲橋と白雲橋

青雲橋と白雲橋

アーチ

紫霞門

紫霞門の楼

楼の解説板

ポミョン楼

門の前の松

紫霞門

蓮華橋・七宝橋解説

蓮華橋と七宝橋

提灯


昔は石橋を渡って門を通り中に入れたのですが、今は通行禁止。外側に設けられたスロープを経由して、安養門内の極楽殿へと参りました。

回廊にはイチゴみたいな提灯がずらり。何か願いが込められているようですね。

極楽殿はその名の通り、極楽世界を表したものなのだとか。中は撮影不可ですが、阿弥陀如来が安置されていました。




極楽殿

極楽殿

軒下

極楽殿

釈迦塔


極楽殿から石段を上って、仏国寺の本殿である大雄殿(デウンジョン)の域内へ。

大雄殿の前に建つ二つの石塔が、国宝の多宝塔(タポタプ)と釈迦塔(ソッカタプ)です。

2つは似てますが、向かって右が多宝塔で、見分けるポイントは階段があるかないか。多宝塔は四方向に石段が設けられ、基壇に獅子が配置されています。ぱっと見、大きさやフォルムが似てますが、よく見ると随分と違いがありますね。釈迦塔はシンプル、多宝塔はデコラティブです。

これらの塔に関しては、阿斯達(アサダル)と阿斯女(アサニョ)の伝説を聞いたことがあったので、周りに池があるものだと思っていたのですが、ありません。伝説だからなぁ^^


大雄殿は・・・


大雄殿は681年に創建され、壬辰倭乱のときに焼失し、1765年に再建されました。ただ基壇と礎石は創建時のままだそうです。当時としてはかなり大きな建築物だったことでしょう。中には本尊として釈迦牟尼仏、脇侍として弥勒菩薩らが並んでいます。

ここで一言付け加えておきたいことは、壬辰倭乱の前、1407年に太宗による仏教弾圧、1424年に世宗によって同じく仏教弾圧があり、その際に存続を許された寺院リストの中に仏国寺の名が無いということです。つまりそれ以前に既に廃寺となっていたと考えられるのです。

だから壬辰倭乱のときに全山焼失したと言いますが、その頃どの程度の建物が残存し、寺院としてちゃんと機能していたか不明で、日本軍が略奪して放火したというイメージがあるとしたら、それは事実と異なると言わざるを得ません。

阿斯達と阿斯女は美しい物語として存続してもらっていいですが、日本軍による破壊伝説は払拭される必要があるように思います。





釈迦塔

釈迦塔解説板

日本語解説

三層石塔の釈迦塔

大雄殿


大雄殿解説板

多宝塔

多宝塔解説板

紫霞門

紫霞門解説板


無説殿


大雄殿の背後に回ると無説殿(ムソルジョン)が。経典を講義する講堂だそうです。

内部には地蔵菩薩らと一緒にタイから来た仏像も並んでいて、他と違うエスニック印象。建物は東アジアだけど、仏像は東南アジアみたいな。

友好親善という意味では良いことでしょうね。でも、宗派とかは問題ないんですかね?(問題ないから置かれているんだろうなぁ。

仏国寺は、創建当時は毘盧遮那仏を本尊とする華厳宗の寺院でしたが、現在は禅宗系の大韓仏教曹渓宗の寺院となっています。そのため、元々本堂にあった毘盧遮那仏坐像は移動され、今は毘盧殿にあります。どういう事情があったんでしょうね?

おおおっ!と思ったのは、強化ガラスに守られた舎利塔(サリタプ)。小さいけれどとても精巧な作りです。ほんとにお釈迦様の骨が入っているんじゃないかと信じちゃうほど神秘的な佇まい。解説板に書かれていませんが、一見の価値ありだと思いました。



無説殿解説板

タイの仏像

地蔵菩薩など

無説殿

観音殿


無説殿の背後には、右手に観音殿、左手に毘盧殿。どちらも大切そうなので、一つひとつ丁寧に回ってみましょう。

観音殿は、古色蒼然たる中に控えめに美が光っていて、わたし的には仏国寺で一番素敵な建物。

写真に収めたくなるディテールがあちこちに。素敵に撮る技がないので、ただパチパチ撮るばかりですけど。。

毘盧殿の内部には、国宝の毘盧遮那仏坐像(元々本尊だったもの)が。統一新羅時代の金銅仏です。あまりに金ぴかで有り難味を感じないのは、日本人の感性ですかね。もっと色味がなくなった木像の方が、自然と頭が下がるというか。

それにしても新羅はすごい仏教国家だったんですね。仏教にかける人・物・技術がハンパないです。



軒裏


回廊

石段

毘盧殿

毘盧殿解説板

毘盧殿

毘盧殿

数奇な運命をたどった舎利塔


毘盧殿を出て右手を見やると、柵に囲まれた石造物が。遠目には石灯籠のように見えましたが、舎利塔だそうです。

しかも、一旦日本に渡ったのが、のちに返還されたのだとか。びっくりです。そんな文化財があるんですね!

高さは2mほどで、灯籠じゃないけど舎利塔としても独特な形状。高麗時代初期のもので、宝物61号に指定されています。

これって、日韓史を物語る一つの象徴とも言えるものではないかと。1906年に日本に持ち去られ、1933年に返還されたのには、きっとそれなりのストーリーがありますよね。大切なのは、今ここにあることだと思います。

植民地支配下で現地の貴重な文化財が宗主国に持ち去られたというのは、賛成するわけではないですが、ありがちなこと。でもそれが植民地支配が続いている中で現地に再び返還されたという話はあまり聞いたことがありません。ここから日韓史の一つの側面を読み解くことができるのかもしれませんね。

美術的な視点から見て、とても価値あるものだということを感じますし、手に入れたら返したくないという気持ちになるのが想像できます。数奇な運命をたどった舎利塔が、何か日韓史にとっていい物語を語ってくれないかと、少し期待してしまいます。



柵に囲まれて

解説板

舎利塔

舎利塔

再び極楽殿へ


ぐるっと回って(多少迷って)、再び極楽殿へ。もう一度よく見たら、石灯籠の前に金の豚が置かれていますね。

幸運の金の豚は、確か金運をもたらす縁起物。軒の部材にも豚が彫り込まれていて、うむむと唸らずにはいられない感じ。

中国を中心とした東アジア全般に御利益信仰が広がっているのは、人の願いを反映するものとして理解できますが、仏教思想と同等に並べるのはどんなもんかと。

仏教思想とそれを信じて行う信仰生活と、現世利益を祈願して豚の像をなでる行為とは、ちゃんと分けて考え、それぞれに応じた宗教活動を別々にするといいと思うんですよね。私の頭がカタ過ぎるのかもしれませんが。


極楽殿の領域には


記録によると、草創期の極楽殿の領域にはお堂(殿)や回廊、石灯籠など多くの建築物があったと伝えられています。どこまで広がっているのかわからないので、深入りはしませんでしたが、ちょっと周囲を見ただけでも、建物跡の礎石がいくつもありました。

建物は、18世紀以降に建て直されたものしか目にすることができませんが、新羅時代には全山がとても栄えていた様子が感じられます。


仏国寺の礎石に十字架が?


ただ・・・、仏国寺境内にある礎石に十字のようなマークが見られるからといって、それを景教(東方キリスト教の一派。唐代の中国で栄えた)がその時代の朝鮮に伝来した証拠とする考え方には、私は与しません。先日も、それを指して「仏国寺に景教のしるしか?」みたいな書き方をするSNSを見たんですけど。

これだけ仏教全盛だった新羅の寺院に、そんなしるしが「密かに刻まれた」はずなどないのに。キリスト教が禁止されているわけでもないから、信者がいたなら他の所で信仰すればいいですよね。

反対意見を言われると、そういう考え方を採る人たちは、「そうかもしれないと言っているだけだ」とか「可能性があると言っているだけで、断定はしてない」とか言います。そうやって、言い切りの形ではなく「示唆」することで、攻撃を避けようとするのですが、その「示唆」さえ見当違いだろうと思います。


何らかのマークがあったとしても


まず、石造物に十字や×マークが刻まれていたとしても、いつ誰によって、どんな意味・理由・必要があって刻まれたかわからないのに、現代人の考えでキリスト教と結びつけるのがナンセンスです。

また、他の学術的研究で三国時代(あるいはそれ以前)の朝鮮にキリスト教が伝来した痕跡が一切認められていないにも関わらず、十字などのマークだけで、それらの研究を無視して、そんな飛躍した結論に至るのも理解しがたいです。もし「飛躍してない、れっきとした一学説だ」と言いたいのであれば、学術的で実証的な研究を通して主張すべきでしょう。

未だ、推測以外の根拠でキリスト教伝来説を唱えている人(本)に出会ったことがありません(そもそも推測を根拠と言えるのかも疑問...)。


一定のマークを云々する手法


一定のマークを云々してキリスト教関連物(遺物)であるとする手法は、日本の隠れキリシタン研究家にも共通する手法ですね。実際、景教が古代日本に伝わっていたと主張する人と、マークでキリシタン墓・キリシタン遺物だと認定する隠れキリシタン研究家は、ある程度重なっています。そして更に、8世紀の朝鮮に景教が伝来したと考える人とも重複しているから、国際的な広がりを見せていると言っても過言ではないです。

「そんなトンデモ言ってるの、一部の人たちでしょ(ほっとけば?)」と思われるかもしれませんが、私は憂慮しています。理由はいつか。長くなっちゃうので。



極楽殿の福豚案内

福豚

領域

礎石

仏国寺博物館


入口付近に戻り、時間をかけて仏国寺博物館を見学。注目は、ポスターにもなっている金銅製舎利函(サリハム)ですね。

先ほど見た釈迦塔ですが、1966年に台風で破損して、解体修理が行われたのですが、その際に塔中央部から『無垢浄光陀羅尼経』が発見されました。

この経典は、仏国寺が創建された751年からこの塔に納入されていたと考えられるため、世界最古級の木版印刷物として知られています。

金銅製舎利函も同じ時に釈迦塔から発見されたもので、国宝126号。そりゃ国宝になりますよね。実物を見てみたら、意外と大きかったです。千年を超える祈りだなんて・・・。美しさもそうですが、流れた歳月と込められてきた思いとに打たれて立ち尽くすしかありませんでした。その他の宝物も素晴らしく。

団体ツアーだと、博物館は省略されることが多いようです。もし個人で訪れるなら、是非博物館にもお立ち寄りを (o^^o)


2000年代の解体修理によって


釈迦塔は2000年代以降にも解体修理が行われています。2010年に基壇に亀裂が確認され、2012~2014年にかけて修理されたのです。館内ではその過程を収めた映像を視聴できます。石塔は、日本の木造五重塔みたいに高くないから、あまりすごいと感じなかったのですが、映像を観て考えを変えました。

トンを超える重さの石を加工し、華麗で荘厳なデザインを構築しつつ、その総重量に耐えられる地盤を整え、寸分も傾くことなく垂直に積んでいくだなんて、想像を絶するテクノロジーです。

そしてこの基壇の中から発見されたのが、金銅仏立像。基壇に仏像、塔中央部に経典と舎利。技術の粋を集めて造った石造物の中には、貴く貴く思う宝物が入れられていたわけですね。ぱっと外から見ただけではわからない技術と労力、篤い信仰に、ため息が出ます。


仏国寺で発見された十字架!?


ところで、三国時代には朝鮮にキリスト教が伝来したと主張する人たちは「仏国寺から十字架が発見されており、今はソウルの崇実大学校にある。それが証拠だ」と言います。今度はマークではなく、十字架というんですよね。真実ならば大変なことです。

韓国のキリスト教史を書き直さなければならないし、仏国寺という仏教の中心地でキリスト教が信じられていたとなれば衝撃的な事実ということになり、仏教史・宗教史も書き換える必要が生じます。

私はその人たちの言葉を聞いて、解体修理中に塔身のどこかから発見されたのかと思ったので、映像を真剣にウォッチしたのですが、十字架発見の話は無く、映像のどこにもそれらしきものは映っていませんでした。更に、館内は撮影不可だったので図録とサイトで確認したのですが、やはり十字架に関しては何も書かれておらず、写真や記録もありません。


本当に「十字架」なのか?


大体、仏国寺で出土した物が、仏国寺及び研究機関の管理を離れて、どうやってソウルにある大学にもたらされたのでしょうか。戦時中とか、それ以前の動乱の時代で、発掘品が持ち去られたのかもしれないけれど、それでも記録くらいは残るはずです。

そして、発掘品は本来の場所に戻すのが良いとされているので、例えば日本に持ち出された多宝塔が返還されているように、仏国寺出土品なら今ある所からこちらに返還されてしかるべきです。特に、歴史を物語る貴重な史料であれば。キリスト教との関係を表すものならば、すぐさま」返還して調査・研究すべきですよね。

その点も疑問ですけど、本当に「十字架」なのかがより重要な問題ですね。崇実大学校のキリスト教博物館サイトに写真が載っているんですけど、確かに石造物で十字の形をしているんですが、十字型に成形されたものには見えないので、私には建築部材の一部に思えるんですよね。

そう指摘すると、「あなたちゃんと見たことあるの? 私は実物を博物館で見たんだけどね・・・」と、実物を見たことないんじゃ話にならないという対応をされました。見なきゃ話にならないといわれたら、見て話すしかないでしょうね。今回はソウルまで行けないけど、次回にでも。



記念碑

金銅製舎利函

スロープ

境内マップ

世界遺産仏国寺

世界人類が平和でありますように@@

記念碑

境内

バス待ち


仏国寺と一緒に1995年世界遺産登録された石窟庵(ソックラム)にも行こうとバス停に。石窟庵行きのバスは1時間に1本しかなく、不便だからか待っている人も数人のみ。

まぁ、気長にいきましょう。じっくり回ればいいのだから。日本でもそうですけど、韓国も地方は自家用車で動く人が多いですね。

こういう待ち時間があって不便だから、韓国人も団体ツアーで仏国寺・石窟庵を訪れる人が多いのだと知りました。



石窟庵へ


しかしソロ旅の不便さも、別の角度から考えれば愉しさであり、路線バスの大揺れに耐えて30分、到着した山頂からの眺めは、苦労をしのぐもの。いえ、苦労したからもっと素晴らしく見えるのかもしれません。

日差しも出てきていい感じですね。広い駐車場には鐘閣。韓国の風景には必須のようです。

今やっと理解したのですが、こちらの吐含(トハム)山全体がいわば寺域で、中腹に仏国寺、山頂に石窟庵があるという構図。日本でいうなら、石窟庵は「奥の院」ですかね。石窟庵では僧侶が厳しい修練を行ったというので、より俗世を離れた神聖な領域だったのでしょう。



石窟庵駐車場

山頂からの眺め

石窟庵へ

鐘閣

石窟庵への入口


こちらの堂々たる構えの門が石窟庵への入口。チケットをもぎってもらって中へ。この先は山だから、入出者をカウントしないといけないんでしょうね。

入場すると、山道はシーン。たまに家族連れにも会うけれど、人は少ないです。仏国寺までは行っても、そこから車で30分登る石窟庵までは来ない人が多いようです。

世界遺産だから、もちろん道は整備されているのですが、日本人の感覚からしたら「ここロープ張らなくていいのかな?」と思う危険個所も。ただ、自然の中に没入していくみたいで気持ちはいいですね♪



石窟庵入場口

世界遺産

山道

途中石段も

全体的に人少なめ

昔からの石造物

石窟庵


概ね緩やかな坂道を25分登って、石窟庵に到着。内部は写真撮影不可です。受付に人が一人いるだけで、仏像と一対一で相対せたのはラッキー。期待してましたけど^^

石窟庵は、前室と主室(本堂にあたる)があって、2つの部屋は約3mの廊下で結ばれています。入口に見える建物は、前室を保護するための覆い屋で、元々は屋根だけだったそう。

前室の壁には、板石に刻まれたレリーフが。八部衆の神像みたいですね。順路を少し進んだ廊下には、仁王像と四天王像。こういった神像・仏像の配置を見ると、インド・中国と伝わり韓国にもたらされた仏教は、同じルートを経た日本の仏教とやはり似ているなと感じます。


石窟庵の主室が圧巻!


石窟庵の主室は、約360個の白色花崗岩の切石を巧みに組み上げてドーム状にした天井が見事。そこに土をかぶせて、古墳のような形に仕上げています。内部には、中央に花崗岩を丸彫りした阿弥陀如来像(推定)、壁面には菩薩像や羅漢像のレリーフがぐるりと取り巻いています。暗くてよく見えませんが、上部にも石造仏が配されているようです。

岩肌をくり抜いた洞窟寺院とも違うし、磨崖仏とも違うし、それでいて立体曼陀羅にも似ているような感じがするし、他に類を見ない建築技法によって作り出された、独特な仏教芸術世界ですね。山奥まで来て、修行の果てにこの空間に身を置いた僧侶たちは、一体何を感じたのでしょう――。

正に、圧巻です。

本尊の顔立ちにも親近感を覚えました。奈良っぽいですね。白鳳期の仏教美術は、日韓双方に懐かしさを感じさせる穏やかさ。韓国の山奥の寺院で、思わず憩ってしまう仏像に出会えるとは。



石窟庵入口

解説板

石窟庵の前

基壇

改修工事について

石窟庵外観

寿光殿


石窟庵を出て順路に沿って下りて行くと、お堂が。こちらも歴史がありそうです。仏像があり、中では49日供養や、布施の案内をしていました。

周りには、石窟庵の周辺で使われていたであろう石材が。いろんなお堂や建物があり、それこそ全山に僧侶が暮らしていたんですね。

人の持つ信仰というものに、自然と考えが向かいます。人はこの世を仮の世界と考え、より良い来世を願ったんですよね。そしてそのために、仮の世であるこの世を捨て、修行の場として生きたという。永遠を考えないではいられないのが、人間という存在なんだとつくづく思います。



寿光殿

石材

石材

提灯

シマリスに遭遇!


若干危険な崖崩れ込みの下り道、緑を渡ってくる風と小鳥のさえずりにサラウンドな爽やかさを感じていると、目の前にシマリスが駆け出してきました!

カメラを向けると逃げていきましたが、可愛さにほっこりでした。こういった自然を体験させてもらえるのも旅の醍醐味。

深閑とした山奥で修行に勤しんでいた昔のお坊さんたちも、時にはシマリスに出くわして、ほっこりしたことがあったのかなぁ。私にとっては思い出の1ページになりました (๑ᴖ◡ᴖ๑)



シマリス

山道

崖崩れ込み

自動販売機


行きが1時間に1本だったんだから、当然帰りもそう。石窟庵まで行って見学し、戻ってくると大体そのくらいになるので、よく出来たタイムスケジュールではあります。

待ち時間に、自動販売機でユルム(ハト麦)茶を。他に売店等がないのは、土産物屋が並んでいて呼び込み激しいよりいいですが、栄養補給が難しいとは思っていませんでした。

晴れて暑いくらいになってきたのはうれしいですね♪



眺め

バス停

1時間に1本

ユルム茶で緩む

バス停


石窟庵から30分揺られて仏国寺前に来て、路線バスで今度は慶州博物館方面に向かいます。

バスは10番と11番しか通ってないのですが、間違って乗ると慶州駅へ行ってしまうので緊張します。全然緊張する必要ないところで力が入ってしまい、体力・精神力を消耗するのが私のあるある。直せるといいんですが。。



路線図

月城


緊張し過ぎて降車ボタンを押し間違え、博物館の一つ先まで行ってしまい、一区間分えっさほいさ。原状復帰でっきるレベルで良かったと感謝すべきか...(~_~;)

右手に見えるのは月城(ウォルソン。半月の形をしているので半月城とも)です。草刈りをしていて、ブーンという音と濃い草の匂いが。

まるで日本の田舎にいるみたいで、脳内にセレトニンか何かが分泌されている気がします。あ、これ茶畑のイメージですかね。



月城


月城

月城の池の博物館


憧れの国立慶州博物館♪


国立慶州博物館


たぶん日焼けして到着、国立慶州博物館。日本の国立京都博物館に相当する博物館で、ここに来ないと見られないお宝がたくさん収蔵されています。

前から来たかったんですが、数年前にリニューアルされて、より見やすくなったよう。今来て良かったんだなーと、とにかくワクワクが止まりません。

屋外展示も充実しているようですね。どこから見ようかな?



三層石塔

解説板

碑の足台部分

解説板

エミレの鐘!


ああ、これは有名なエミレの鐘!(国宝29号)

鐘を鋳造するのに何度も失敗し、生贄として女の子を中に入れて鋳造したら見事成功。だけど鐘をつくと「エミレレーーー」(おかあちゃーん)と響いたので、エミレの鐘と呼ばれていると、そんな怪談めいた話を聞いたことがあります。

もちろん作り話なんですが、それでも怖いわ!

こちらの鐘の正式名称は「聖徳大王神鐘」。韓国最大の梵鐘で、重さはなんと約20トン。聖徳王の冥福を祈るため、景徳王の時代から鋳造を始め、恵恭王の時代(771年)になって完成したそうです。強化ガラスで阻まれて近付けませんが、一番上の釣る部分には龍、鐘の胴部分には花文様と蓮華、飛天、葉っぱが装飾されていまね。巨大な割に、意匠が女性的だなと思いました。女の子が入っているから・・・ではありませんけど!



エミレの鐘

野外展示

獅子・孔雀文石

解説板

新羅歴史館


国立慶州博物館の本館は「新羅歴史館」。新羅の都・慶州ですから、そりゃそうなりますよね。

第1~4室まであって、新羅の勃興から全盛期、滅亡までをたどることができます。

まずは第1室の「新羅の建国と成長」から。新石器時代の石製道具や銅製の剣など。



新石器時代

新石器時代

石製道具

銅剣

「黄金の国 新羅」


第2室の「黄金の国 新羅」に入ると、徐々に新羅の真骨頂である黄金に彩られた世界に導かれていきます。

まずは青銅の剣や銅鏡、銅鐸。最初は小さな物ですが、少し経つと大きな物に。ガラスの首輪、腕輪が続き、銅製の鎧などが作られるようになってきます。

剣や防具も見ると、戦いもあったんだなと感じますね。



銅鏡、銅鐸

青銅の剣

ガラスの首輪、腕輪

銅製防具

大きな青銅剣

銅製の鎧

水晶のネックレス


こちらは3世紀の水晶のネックレス。

粒が結構大きいです。セットなのかわからないけど、水晶の指輪やイヤリング、腕輪なども出土しているようです。

瑪瑙と翡翠のネックレスもゴージャス。現代でも通用しそうなデザインです。この辺り、女性なら目が輝いちゃうコーナーですね。勾玉が古代朝鮮でも珍重されていたのを初めて知りました。故宮博物院にもあるんだから当然か。



瑪瑙と翡翠のネックレス

鴨型土器

ベルト金具

勾玉

黄金冠


「新羅人、金を使い始めた」と書かれた解説パネルの前に、黄金冠が。ここからすごいことになっていきます。

黄金冠は慶州の校洞という所にある墓から発掘された5世紀のもので、校洞では今までに6個、大小の黄金冠が見つかっているのだとか。

隣国と交流してもたらされた銀や金銅製品もありました。戦いも含めた交流によって、急激に発展していった様子がうかがえます。



「新羅人、金を使い始めた」

金製品

黄金冠解説

土偶たち

隣国と交流して

銀製品

金銅製品

馬具


4世紀の馬具や兜も。戦いにより征服し財を手に入れ、文物を摂取して発展した新羅は、 それを成功体験と捉えたのか、拡張路線を進みます。

解説パネルによると、新羅は征服した小国を、その地域の支配層の子孫を使って支配したということです。




征服地をどのように治めたのか?

ネックレスなど

多様な土器

金冠塚


「黄金の国 新羅」はまだ続きます。こちらは金冠塚(クムグァンチョン)。5世紀の古墳で、1921年偶然発見されました。

盗掘されていなかったので、中から金製装身具をはじめとする豊富な遺物が見つかり、その後の古墳調査の足掛かりとなったそうです。

「もうこれ本物~@@?」と、口をついて出てしまいそうになるのを飲み込みます。



「黄金の国 新羅」

新羅は金冠の国だった

映像

正に金冠!


ああ、正に金冠!これぞ金冠!どう見ても金冠!

こんな美しく輝く金冠を5世紀の人が身につけていたとは。

前立が七支刀のような形になっています。いや両横にも後ろにもあるから前立でなく、「出」の字の段がもう一段増えた形で、端ごとに勾玉付いています(←説明下手かっ)。首飾りはガラスビーズかな。ベルトも王冠並みに黄金使っていますね。腕輪も黄金。腰に付けていただろう垂れ飾りもキンキラ。

これ、複製って書いてないから、ほんとに本物ですよね?金って、もっと妖しく輝くと思っていたんですが、本物の金って意外とスパッと輝くものなんですね。邪気なく、素直に黄金の光を放っています。



金冠塚

金冠塚

金冠塚

皇南大塚


「これ本物!?」は、次のコーナーで叫びに変わります(;^_^A

その名も皇南大塚!(ファンナムデチョン)

5世紀初から中盤にかけて造られた巨大な古墳で、金冠など数万点の副葬品が出土したのだとか。

皇南大塚には南墳と北墳があり、南墳に男性、北墳に女性が埋葬されていました。副葬品が全て最上級品で、華麗な装身具を身につけていたことから、新羅の最高統治者だった麻立干とその后の墓に間違いないとされています。死後の世界を強く意識していたんでしょうね。

副葬品の中には、古代朝鮮キリスト教伝来説の人が小躍りしそうな十字架に見える物も。明らかに時代合わないんですけど、注意するに越したことないので、そういう方々にはお知らせしないようにしなくっちゃ。どんなこじつけで「証拠だ!」と言われないとも限りません。



十字架状の物

王陵からの出土品

シルクロードを通って

展示品

黄金宝剣

ガラス器

黄金の窟・・・


こちらの黄金の靴は・・・日本の古墳から見つかっている物とそっくりですね。靴だから、それなりに形は限られるけど、素材とデザイン、とりわけ透かし網目と円形の薄い飾りが取り付けられているところは共通のデザインと考えて良さそう。

三国時代の新羅と大和朝廷には行き来がありましたし、学術的研究を飛び越えるのでなくベースにした上で、互いの交流は、物からも見て取れると言えるのでしょう。

あまりに展示数が多くて圧倒されたので、サムネイルで画像上げるだけにしますね↓。途中からは天馬塚の出土品です。やはり王陵で、おびただしい金製品と装飾品が見つかっています。「黄金の国 新羅」は真実でした!



日本語解説

皇南大塚

副葬品

金の器

副葬品

杖など

馬具

装飾品

装飾品

副葬品

土器

副葬品

展示室

新羅の黄金文化

冠に付けた

耳輪

金製品

6つの金冠

それぞれの塚から

栢栗寺異次頓殉教碑像


第3室は「強力な中央集権王国」。そこに入って目に飛び込んでくるのは、一つの石碑。

栢栗寺(ペンリュルサ)にあった異次頓殉教碑像です。

わかりますでしょうか?
←の右側の碑面に、首を切られて血が噴き出している人物像が刻まれています。この人が6世紀の僧侶 異次頓(イチャドン)。

新羅第23代の王、法興(ポプン)は仏教を国教と定めようとしましたが、周囲の反対で実現できないでいました。そんなとき異次頓が、仏の加護があれば自分が死んだら奇跡が起こると言って自害。すると切られた首から真っ白な血が飛び出し、空からは花びらが降り始めたのだとか。人々は奇跡が起こったと感嘆し、仏教は新羅の国教となったといいます。

この碑はその場面を描いたもので、異次頓を供養するために571年に創建された栢栗寺にありましたが、現在はここに展示されているのです。殉教碑は六角柱で、5面には銘文、残りの1面にこの絵が、浅い線で浮き彫りされています。首から噴き出す血の、迫力ある描写。幾世紀を超えて語り継がれてきたんでしょうね。

新羅の仏教美術も大変レベルの高いもので、軒瓦一つをとっても栄華がしのばれます。詳しく説明したらキリがないので画像だけ☆



殉教碑解説

銘文の面

新羅碑

拓本

6世紀中葉の土器

8~9世紀

城を造れという碑

金製耳輪

軒丸瓦

墓碑

十二支像

舎利器

軒丸瓦


最後の第4室は「新羅の隆盛と滅亡」。 金や金銅製の物は姿を消し、焼き物の瓦が多数展示されていました。護国のための寺院を建て、国家鎮護を願っていたようです。

「黄金の国 新羅」とは明らかに違った雰囲気。3世紀ばかりの間に隣国との関係が変わり、国内情勢が変化したのでしょう。

軒丸瓦の中には八葉弁の蓮華もあって、デザイン中に×が入っていることを示して、ある牧師さんが「これは全く景教と関係ないのだろうか?」と、問いかける文で投稿しながら、あたかも関係があるのではないかと示唆するSNSを発信しているのを見たことがあります。全く関係ないと思いますよ、と言うしか。


専ら文様で関連付けるのって・・・


景教が伝来したとするには無理がある(時代も地域も合わず、それを可能とするルートも示せない)のに、文様でもってあり得る話とする方が強引ではないかと。「その辺を明らかにする研究がまたれる」と言うんですが、待っていたら自説を肯定してくれる結果がもたらされるとでも考えておられるんでしょうか。

既に学術的研究では無関係と判明していることを、ご自分が受け入れていないだけですよね。いや、もしかしてそういう情報や知識を知らないのかしらん? それはないなぁ、そんなのでは専門家を自認してはいけないから。読みはするけど、教科書や通説を「一つの説」として扱って、自分の考える証拠や研究結果が出てくることを願っているのかもしれないですね。



護国寺を建てる


軒丸瓦


女人土俑

唐の服飾を受け入れた

獅子像

仏国土を実現する

金剛力士像


新羅歴史館を出て見渡すと、庭一面に石造物が。壮観です。

こちらは寺院跡に置かれていた金剛力士像。

日本で木造となっているものが、朝鮮では石で造られたことがわかってきました。塔もそうですし、像も。同じ仏教でもそういった文化的違いの下で受容されていったんですね。

仏国寺にあった多宝塔が完全な形で複製されていたり、欠けている部分を補って復活させていたり、元の様子を復元しているものもあれば、基壇や礎石がそのままズラズラッと並んでいるエリアもあります。

礎石に十字が刻まれているかはチェックしなかったけれど、そういったマークがあっても不思議ではないですね。石造物を構築する際に目印のマークを刻むのは常識的なことですから。それをキリスト教と関連付ける人(牧師)は、こちらの礎石を見てもそうおっしゃっています...(小さくため息)。まぁ、日本でも石垣や石造物などに十字マークがついてたら「キリシタン遺物だ!」と認定する人がいるので、同レベルですね。



金剛力士像解説

仏国寺多宝塔復元

仏国寺多宝塔解説

石灯籠

石塔基壇面石

石塔基壇面石解説

野外展示

野外展示

月池館


こちらは細長い形をした月池館。中に入ると若干暗くて足元注意といった感じです。

月池(ウォルチ)は、新羅王宮である月城の北東に位置する人工池。674年、三国統一を成し遂げた文武王によって造成されました。

総面積が5000平方メートル以上というから、どんだけ!?です。新羅が一番栄えていた頃の遺跡ですね。

展示物には月池の模型や復元された木造船、王宮で使用されていた生活用品など700余点が。ここだけでもかなり見応えある展示になっています。慶州博物館恐るべし。展示方法も古くなくていいです。リニューアル前に博物館を訪れた人には、もう一度どうぞと言いたいです♪



月池館

月池

館内

出土品

軒丸瓦

出土品

木の船

鬼瓦

新羅美術館


こちらが新羅美術館。こんな大きな建物が敷地内にバンバン建っているから、もう。見ているうちに命が尽きそうですね(大袈裟だけど、ちゃんと見てたら一日あっても足りない汗)。

中は仏教美術の世界です。新羅の美術というのが、仏教を中心としたものだったから当然の帰結でしょう。



石窟庵の浮彫(複製)


入って最初の部屋には、石窟庵の本尊を取り囲んでいた浮彫(レリーフ)を石膏で複製したもの。

暗くてよく見えなかった(心の目で見た)十一面観音菩薩と普賢菩薩、文殊菩薩などを細かいところまで見学できてうれしいです。

立体拓本というそうな。なるほど~

新羅美術館の1階には、慶州南山など、慶州各地から集められた石像・石仏が展示されていました。王宮の周りだけでなく、慶州全域に仏教が浸透していたことがうかがえます。



帝釈天

立体拓本と配置

浮彫複製

浮彫複製

浮彫複製

石造薬師仏座像

八部衆


解説パネルによると、新羅の仏像の特徴は「素朴さ」だそう。当時の人々の心性が表れているようで興味深いですね。

100年ほど前から発掘調査が始まった四天王寺址の様子がフロアに再現されていました。ガラスの下は発掘された当時の道。

670年、唐の海軍が新羅に押し寄せてきた際に、文武王の命で慶州の南山で僧たちが密教儀式を行ったところ、雨嵐が起こり唐軍の船は沈没。9年後に儀式が行われた場所に創建されたのが四天王寺だったと書かれています。



解説板

四天王寺の神将像

右手に刀を持った神将像

緑釉神将像について

石仏

昔の道

仏頭

芬皇寺 舎利荘厳具

感恩寺 舎利荘厳具

お経(複製)

小塔

舎利瓶

金銅仏


一段と照明を落とした部屋でしっとりとした光を放っている金銅仏。国立東京博物館の法隆寺館にも同様の展示室があったなと思い出しました。

よく見ると、ガラスケース内の仏様たちは微笑んでいるよう。

三国時代の金銅仏は技術に未熟さが見られるものの、三国を統一してからは、技術的にも芸術的にも当代最高のものが作られたと、解説されています。



解説板

金銅仏

金銅仏

金銅仏

金銅仏

金銅仏

金銅仏

金銅仏

栢栗寺の薬師如来立像


こちらはまた素晴らしい金銅仏ですね。自然と目が引かれました。

新羅歴史館で見た殉教碑と同じ栢栗寺にあったそう。

仏国寺の阿弥陀如来坐像、毘盧遮那仏座像と共に、新羅時代の三大金銅像とよばれている像です。

どうして目を引かれるのだろうと思い見ていると、頭部よりも身体の衣装のディテールが優れていることに気づきます。法衣というんでしょうか、垂れたひだの中央が所々切れて、両足の輪郭が浮かび上がるようになっています。

ボリュームや肉感的な印象を抑え、繊細に描写するテクニックが憎いというか。下半身を前に出してバランスを取った立ち姿も、活動的ではないけれど、控えめな動きを感じさせて絶妙です。1200年も前の作なのに、保存状態もいいですね。この頃となると、新羅の絶頂期からは外れるけれど、一流の仏師たちがいたんですね。



薬師如来立像

薬師如来立像解説

石造仏像

芬皇寺 観音菩薩

石造仏像

石造仏像

石造仏像

9世紀金剛力士像

開仙寺址薬師仏

9世紀末~10世紀初

2階へ

2階は皇龍寺


2階に上がると皇龍寺(ファンヨンサ)の展示室が。新羅の寺院で最大の規模を誇ったのが皇龍寺で、国家鎮護を祈る役割を担っていました。

新羅に仏教が伝来したのは訥祗王(在位417~458)のときで、国教となったのは法興王代の527年。皇龍寺が建てられ始めたのは、第24代真興王代の553年のことでした。

国教なので、新羅の仏教は必然的に護国の性格を持っていました。そしてその代表格が皇龍寺。新羅と仏教、国の安寧は一体と考えられていたのでしょう。



皇龍寺展示室

皇龍寺について

出土品

仏像

復元模型

舎利函

装身具

装飾板など

軒丸瓦


こちらからも大量の軒丸瓦が出土しています。ほとんどが蓮華文様ですね。花弁の数は様々です。

蓮華など花文様の瓦は王宮のほか、仏教寺院でも多く用いられていたメジャーな文様だったと言うことができます。

花でも多様なデザインがあるのは、美しさや「映え」を狙ったからでしょう。人は与えられた条件下で考え得る限りの工夫をするものなので、多様なデザインが生みだされたのはその賜物。至極当然なことなのに、一定のデザインだけ抽出してキリスト教、景教、キリシタン遺物だとする考え方にはどうしても「うん」と言えません。

何度も書いてるので、「またその話?」と呆れられるかもしれませんが、ほんと呆れるほどそういう言説に流されている人が多いんです。そんな人が金輪際出てこなければ、こんな当然なこと繰り返さなくてもいいんですけどね (*´Д`)ハァ...



皇龍寺の瓦

花文様

仏像



装身具





瓦について

数珠


新羅人は馬にも乗っていたようで、馬装具なども出土しています。

装身具などは、見れば見るほど、今と変わらないなと。

馬に乗り、仏教を篤く信じ、きらびやかな装身具を身につけて、新羅人が文化的であったことは疑いがないですね。

だけど戦争に強かったのかな?という疑問は湧きました。三国時代を制したのですから、武力的に三国の中で勝っていたんでしょうけれど、それより仏教や文化の方に傾いていたようにも思えて。

新羅歴史館も含めて、武器・防具、攻城機などの発掘品が少ないように感じました。もっといろいろ見て勉強していかないとわからないけれど。



馬具の名称

馬具

馬具

馬具

装身具

装身具

装身具

銅鏡と剣

筒型銅器

石剣

石斧など

銅鑼


慶州博物館を後にして・・・


月城を見ながら


博物館でお腹いっぱいになるまで文化財を堪能し、肉体の方は腹ペコモードで外へ。だけど食堂とか売店とか皆無です。

バスに乗ろうかと思いましたが、来るまで半時間もあるので、それなら歩きましょうかとテクテク。

先ほども通った道ですけど、草刈りが終わって静かさを取り戻した月城。王宮は2世紀から新羅が滅亡する935年まであったとされています。そんなに長く栄えたのに、今は土塁のような盛土に建物跡が少し残る程度なんですね。「工事中」と書かれた所もあるので、整備して復元したりもして公開される日が、いつかくるのかなぁ。



月城

月城

大陵苑へ


「慶州東部史跡地帯」というらしいこの一帯。ずっと緑の平地で何もありません。これじゃ間が持たないとばかりに、急に花畑があったりして。

古代の新羅を想像しながら、遠く景色を眺めて歩くのが慶州スタイルなのかな。のんびり歩いている欧米系の家族に何組か会いました。

欧米の人は家族で長期旅行をするみたいですね。忙しいアジア系旅行者は、あんまりこういう所に時間かけない気がします(私は否応なくこうなっているので除くとして...)。



突然花畑

慶州東部史跡地帯

瞻星台


来ました、瞻星台(チョムソンデ)!

延々歩いた甲斐がありました。この画、見たかったんですよね。何か惹かれるこの古代っぽさ。

これが何であるかは実はいろんな説があって、現在では天文台であるとするのが通説ですが、「本当にそう?」って感じも。築造年代は、善徳女王(在位632~647年)のときで、花崗岩の切り石をご覧の通りに積み上げた建築物で、四角い窓が開いていることから天文台とされています。

高さは9mほどで、昔は地表から窓の所まで埋められていたと聞いたことがあります。天文台以外に有力なのは祭壇説。確かに徳利型のフォルムが、ただの天文台とは思えなくて。両方兼ねていた可能性はないんでしょうかね?善徳女王に聞けたらいいのに (o^^o)ソレサイコー



解説

解説

瞻星台

瞻星台

古墳たち


他の星に来てしまったのではないかと思う、緑のポコポコランド

古墳って、何でこんなに憩わせてくれるんだろう。

千年もの歳月を何とも思っていないかのような佇まい。渡ってくる風さえ悠々たり。こんな風に吹かれて新羅人も歩いていたのかな。狭い心を大きくしたかったら、広い所に出て遠くを眺めるのがいいんだろうと思いました。



慶州歴史遺跡地区

ユネスコ世界遺産

コンビニのイートインコーナー


いい気になって歩いていたら、いつの間にかどこかわからない所に来てしまい、道行く若夫婦にヘルプを求めました。親切に教えてもらい、グーグルマップで何とか現在地を把握。

コンビニも見つけて入りました。イートインコーナーでお弁当。トウモロコシ茶を飲んで、疲れてたんだなーと思いました。休まず歩き続けてはダメですね。あーもう、でもキリスト教徒が入れられていた獄跡までは行きたいしなぁ。。


コンビニ

大陵苑


とりあえずサクッと見ようと大陵苑(テヌンウォン)。ここ通るのが慶州の中心部に出るのに一番の近道なので、一石二鳥とばかり。

あまり労力かけずに見られるものなら見たいですしね。慶州博物館で見た発掘品の数々は、大陵苑にある皇南大塚や天馬塚から出土したものですから。

慶州はちゃんと見たら一日じゃ無理なのだと、ようやく悟る私なのでした(悟るのがいつも遅い;;)。体力はもはや限界(号泣)。



大陵苑へ

古墳

古墳

皇南大塚


大陵苑内には密度濃く古墳が点在しているのですが、一つひとつ見ていくのは無理なので、ポイントだけ。

こちらが「黄金の国 新羅」で私を叩きのめしてくれてた皇南大塚(ファンナムデチョン)。南と北の双墳で、それぞれに1体ずつ分かれて、夫妻とみられる男女が埋葬されていました。発掘調査後、墳墓の形状は復元されたんですね。被葬者の装身具や副葬品を博物館で見て、こちらで実際の古墳を見るというのは鉄板で、やはりセットで訪れたいところ。

慶州は二日以上かけるのがいいと、従来の考えを改めるに至りました。一言で言うと、私は甘かった! ←それな!



大陵苑

大陵苑

天馬塚


天馬塚(チョンマチョン)は少し外れた所にありました。大陵苑で内部が公開されているのはここだけ。早速中へ入ってみましょう。

夜目の利かない私だと、手探りで進むような暗さの内部を行き止まりまで進むと、実際に被葬者が寝かせられていた場所に到着。レプリカがわずかな光を反射してきらめいていました。博物館では、金は邪気なく、素直に黄金だとか思ってたんですが、やっぱり古墳内で見る金は妖しくて、神秘的というより呪術的なものを感じます。

ツタンカーメンの呪いとか信じてた人の気持ちがわかります。だってお墓の中ですもんね。妖気くらいは感じる・・・んでしょうけど、私の後から入って来たカップルのいちゃつきのせいで怖気は雲消霧散。怖くなくていいですけどね!古墳的には営業妨害かな?w



埋葬されていた様子

翼形の冠飾

展示

対外交流の解説パネル

天馬


この古墳が「天馬塚」と名付けられたのは、馬の泥除け(人間の足が当たる部分に付ける馬具)に天翔ける馬が描かれていたから。これを天馬ではなく麒麟だという人もいます。

その他の副葬品としては、金冠や金の帽子、金のベルトや金銅製の靴、そしてこの旅行記のタイトル写真にもした翼形の冠飾などがあります。

年代は5~6世紀で、被葬者は新羅第20、21、22代いずれかの王であろうとされています。どんな人がどんな時代を生き、どんな風にここに葬られたんだろう?「どんな」ばかりですけど、それくらい尽きせぬ興味がかき立てられて――。

これから墳活(ふんかつ)しようかな。婚活でも終活でもなく、古墳を探訪する墳活。今まで城は追い求めたけど、古墳は眼中にありませんでした。しかしこの大らかで神秘的な感じは、何とも蠱惑的。古代人に呼ばれているかもれない。メインにはできなくても、ちょこちょこ寄ってみようかと思います♪



泥除け

天馬か麒麟か

まだまだ古墳


大陵苑を出て、広い車道を渡っても、まだまだ続く古墳群。もう慶州の街中なんだけど、古墳率が落ちないのはなぜ@@?

ここは市庁の隣ブロックなんですが、道の左右にあるのは、路西里古墳群と路東里古墳群。すごいな、これ。

右手に見える三つの古墳のうち最大のものは、さっきの皇南大塚くらい大きな円墳だし、左手には約15個もの大小の古墳が発見されているのだとか。そのうちの一つ、たぶん目の前に見えているのが、最初に金冠が出土した金冠塚(もう近寄って見る体力が無い...)。

こんなに古墳に囲まれて、慶州の人は日々どんな精神で暮らしているんだろう。古代人が半分、隣人みたいな感じだったりして。慶州は古都だからよく京都に例えられるけど私のイメージでは奈良ですね。飛鳥の里のような空気が漂っています。



路西里古墳群

街中


10分ほど歩くと店の並ぶ小道に。買い物しやすそうな雰囲気で、治安も良さげ。

早めに観光を切り上げて、こういう所でご飯食べるといいんだろうと思っていると、解説板にここが慶州邑城の南門だったと書かれていました。

写真によると、1910年までは門や城跡が残っていたようです。慶州は城壁で囲まれた街で、門の開け閉めして治安などを守っていたんですね。その名残が、こじんまりした商店街かと、腑に落ちました。



慶州邑城の南門

商店街

慶州文化院


慶州邑城の南門を通り、つまり城域内に入って徒歩10分、慶州文化院に到着しました。大陵苑からだと25分くらい歩いていますかね。

もう歩くことは運命なのだと諦めましょう。それでも行きたい所があるのは、きっといいことなんだよ!

ここは東軒(トンホン)といわれる、朝鮮時代の官衙(地方の役所)の跡。まだ門が開いているので敷地に入ってみましょう。



東軒跡


人っ子一人いない東軒跡。東軒でなくなってから、博物館になったこともありましたが、今は文化院という、朝鮮の文化を紹介する場となっています。

この中央の建物は東軒時代から使われてきたものだそう。生き証人ですね。建物前のこの広場は、大邱同様、カトリック信徒の拷問の場となりました。

ただし、ここでは拷問中に死んだり牢死したりした者の記録はないので、殉教地ではありません。ここで鞭打ちや酷刑にあっても、信仰を堅く保った者たちは、蔚山に送られて処刑されました。

だけど死刑宣告を受けたのは、正にここだったはず。今私が立っているここで、彼らは何を考え、心にどんな思いを抱いて耐えていたんだろう。



東軒跡

東軒跡

石碑

現在は文化院

教会も


韓国だからやっぱり教会があちこちに。日本だったら「こんな所に大きな教会が~」と喜ぶところですが、韓国でそれやったら身が持ちません。

というわけで、通りがけにパチリ。メソジスト教会のようですが、建物に比して塔の高さが何と言うか・・・。



慶州監理教会

ウバンアパート


こちらのアパート(日本でいうマンション)群がある所が、朝鮮時代の獄跡。守衛所まであって高級そうなアパートですね。

でも守衛所に人いないし、雰囲気的に入っても良さそう。お邪魔します~



アパート内

高級アパート

獄跡

慶州邑城 監獄跡


アパートの棟数が111や112の所の向かい側に、小高くなった庭があり、そこに石碑が建てられていました。

慶州邑城 監獄跡」とはっきりと刻まれ、隣には解説板も。

しっかり過去の歴史に向き合っている街ですね。さすが慶州だと思ったりして。



慶州邑城 監獄跡

石碑

解説板

オブジェ

庭になっている

発掘調査も行われた

空を見上げて


ベンチがあったので座ってお祈りを。アパートにはたくさん人が住んでいるだろうに、静かです。

慶州邑城は、秀吉の朝鮮侵略(=文禄・慶長の役。こちらでは壬申倭乱と)の際にも出てきます。

この城から飛撃震天雷(信管がついた砲弾)を打ち込んで、日本軍を蹴散らしたのだかと。それなら市内は元より、日本軍の宿所は仏国寺だったので、もしかしたらそちらまで(朝鮮軍の攻撃で)被害を受けた可能性があると思うんですけど。それでも、日本の侵略のせいということになるんでしょうね。

最盛期には80もの建物があったという慶州邑城は、日帝時代に壊されて、わずかな遺構を残すのみ。慶州市では約60億円を投入して、2050年までに邑城を建物を復元し、観光資源化しようとしているそうです。このときに・・・日韓の間に流れてきた時間を見直し、それを超えた未来を構想していけたらいいですね。ほんと、それは祈らずにはいられない。



テンジャンクッ


素朴さあふれる慶州の街角を通ってバスターミナルへ行き、フードコートでテンジャンクッ。味は普通ですが、体に良さそう。

あー、足棒。でも歩き通せて良かったよと、パピコを買ってバスへ。今日は暑くてのぼせました (;´Д`A ```


街角

パピコ


ソラボル


慶州は、新羅時代は首都「ソラボル」で、滅亡して高麗の一部になっても大きな街だったので「東京」と呼ばれました。現在のように慶州と呼ばれるようになったのは朝鮮時代からです。

一方朝鮮時代は首都を漢陽(今のソウル)に置いたのですが、日本植民地時代に街の名を「京城」と変えられてしまいました。

戦後、名前を戻そうかとも検討されたのですが、前に戻るよりはと新しい名前が考えられました。その際、「ソラボル」と、都という意味の「トウプチ」を合せて「ソウル」としたというのが一つの説。「ソラボル」から「ソウル」になったというのが有力説です。

どちらにせよ、新羅の都の名前が入っているということですね。それくらい、どこか心の故郷、文化的源流のように思われているのが新羅。「黄金の国 新羅」は韓国人の誇りのようです。

今日はその「ソラボル」に来させてもらいました。観光的な魅力に惹かれて来たわけですが、何かを見たという達成感よりも、韓国に何度も来ながら今まで触れられなかったところにようやく触れられたような気がして、心に満ちてくるものがあります。

「ソラボル」――。日本にない発音だから、懐かしい感じはしないけれど、語感の爽やかな優しさが、街の印象にそのまま重なります。古代の新羅人はうまく名付けたものですね。暮れていく空の下の「ソラボル」を、飽きもせず眺めて帰りました。






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